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熊本県長洲町安正寺

エコウ4月号第388号
2008年4月1日発行

浄土の真宗
釈尊が説かれた真実

 弥陀成仏のこのかたは 今に十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき佛とみえたまう。久遠實成阿弥陀佛 五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼佛としめしてぞ 迦耶城には応現する。この御和讃は、親鸞聖人の直筆が残されてある讃歌であって真実の佛、如来がはっきりと示された真宗の根源が表されてあります。
 阿弥陀佛は、阿弥陀経に阿弥陀佛を説かれた釈尊の説を、六方の諸佛が真実の説であるから疑い無く聞く様に、と讃えている事実が説かれて、釈尊自身も、とても常識では受け取り難い教えではあるが、説く事が出来た。と、自ら信を得、人の世にこの教えが残された事実を、聞いてくれた多くの人々と共にイノチの現実を共に成就し得る世界が開かれた事をよろこばれたのでありました。法華経に釈尊が、お弟子の舎利弗を代表とした人々に私は今初めて佛になったのでは無く、久遠の昔に佛であった。と述べ、その佛は、光照の世界は無量であり、その寿命は永遠であると述べておられます。久遠實成と言う言葉で表現されています。
 釈尊自身の根源を表す言葉でありますが、その佛の行は光明であり寿命であり、光でありイノチである限り、それは総ての人々に確認してほしいと言う願いから出てきた言葉でありますが、同じ法華経の中に、舎利弗よ、よく聞いてほしい。私はもと誓願を立てた。それは総ての人が私と同じように智慧と慈悲の世界に生きて行く事が出来る様にと言う他に無い。と述べられますが、その事をはっきりと述べられたのが仏説無量壽経でありますから、親鸞聖人はこの経を真実の教えと掲げられました。
 釈迦牟尼佛は塵点久遠劫よりも、ひさしき佛であって、五濁の凡愚をあわれみて如来としてこの世にお出ましになったのでありました。そしてその願いは人間の思索と行動を必要としない自然の法則として今、現に願いとして行ぜられている事が説かれています。佛の教えは総ての人々に佛として生きてほしいと言う事です。佛は中国では真人と訳されました。本当の人間を表します。印度では目覚めた人と言う事ですから、現に生きている人々の事実を釈迦牟尼佛と同じ事実としたいと言う事であります。その事をはっきりと事実として示されたのが大無量壽経であります。阿弥陀佛は釈迦牟尼佛のイノチそのものであり如来の内容を隈なく述べられています。如来の本願は人間一人残らずのイノチの中に働き続けています。それは無限の智慧であり、無辺の慈悲であります。無限の智慧無限の慈悲を持てと言われても小慈小悲も無い凡夫の身、小慈小悲を他人に求めたがる身に、実は大慈大悲の如来が一人一人の身になって無限の智慧と無限の慈悲を与え続けていらっしゃるのです。それを知らずに社会に世界に回りに慈と悲とを要求し続けて、不足不満、腹立ちと愚痴との濁流で世を暗黒の坩堝に埋没させている現状は、唯一つ大事な教えを聞かず、自分の思慮分別だけで事足りるとしている所に昨年の状態を「偽」と表現されたのは、真を求めよと言う時代の中にある如来の現行の叫びであったと思われます。如来は真実を表します。涅槃経の中に「如」とは真であり。「来」とは實であると言い、如来を真実として示されます。「如」は真如。「来」は来現。如来様は一人一人の身になって生きて来られました。イノチ終わるまでにこの事に目覚めてほしいと一心に願っておられます。六十兆と言う細胞によって構成されているこの身、その一つ一つの細胞に大慈悲の智慧の願いが込められています。いわゆる如来のイノチが満々と満たされているのです。その証拠がお念仏であります。お念仏の声となって貴方のイノチの耳に響いて参ります。その声に随って下さい。そこに心和らぎ、歓喜の世界が開かれて、如来の一心と釈迦牟尼佛の一心とが貴方の心に結ばれて、お釈迦様が、同じ阿弥陀佛のイノチに結ばれた私と同じ、真実のお友達でありますよ、と呼びかけていらっしゃいます。