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熊本県長洲町安正寺
エコウ3月号第387号
2008年3月1日発行
浄土の真宗
遥かなる如来の御恩を戴く
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暑さ寒さも彼岸まで。と言い習わして来た言葉は、色々な人間社会の問題は、既に釈迦牟尼仏陀によって示された真実の国、お浄土の世界に目覚める事に依ってその道が開かれる事を示している事を表しています。釈尊の成道は、自然界の中にある人間世界における個人と社会との関係、その根源は社会倫理にあり、これは全宗教に明らかな通りであって、今更再び述べる事は不必要な事だと思いますが、その中に在って、世界社会地方の現実は家庭から始まって社会、国際社会に至るまで、争いと傷つきあい、傷つきあいどころか、殺し合いに走っている現実は、何処に因があるのでしょうか。それは自分の思いが完全にして間違っていないと言う思いに立っている事の他にないと思われます。
何故か、それは真実の判断、真実の知識に暗いと言う他にありません。真実の判断、何を判断するのか、善悪と利害。人間の判断は此の外に出る事は有りません。しかし善悪利害の中心は考える自己自身以外には無い事は自然の道理であります。とすれば、一人一人の思いが違っている限り邪魔者は消せと言う他者抹殺へと認識が移行するのは当然でありましょう。今日の世界情勢はそれを証明する現況は渦を巻いて地球上に満ち満ちている状態は、それこそ末の世を表す、末世、末法、と言う他に無い時代である事は確かであります。
阿弥陀如来の因の時の名を法蔵と言い、法蔵は、一切の人々の願は総ての人々と手を取り、心豊かに人生を全うしようと言う事にあろうと思い、その実現に向かって思いを廻らし見出だされた心が四十八の項目になり、その項目を一語に表した言葉そのものに自らの身を込めた名が「南無阿弥陀佛」と言う名の佛になって下さったのでありますから、その佛の名を称える事が如来の願いを我が願いとして生きると言う宣言が称名念仏であります。
南無阿弥陀仏と言う御名(ミナ)は如来の願いと願いによる働き(行)が同時に表れた自然(ジネン)の業力を表しますから、お念仏申す時、そこに必然的に願力の果が表れて、浄土の徳が満遍なく供与されてまいります。何処に、と不思議に思われるかも知れませんが、感覚の違い、感受する世界の違いがありますから、あーこれかと、受け取るルールの違いがあって、確認が出来ないかも知れませんね。それを親鸞聖人は求めずして与えられる不可思議の功徳。とお示しになりました。お念仏を不可思議の功徳の宝海とお示しになります。功徳によって出来上がった宝の海と言う事です。宝の海の波の音が南無阿弥陀仏と響いて来るのです。阿弥陀佛は如来の身であり如来の智慧であり如来の国であり世界でありますから、そこをお彼岸と言っています。だから実はお彼岸の中にいて、此の世界の苦悩の因を他者に押付けて、自分は楽に生きれる筈だと思い続ける我執。智慧を失った分別の無明性をあらわにしている事実に目覚める他に道はありません。もっともっと困難な出来事に遭いながら、微笑みをもって生きていらっしゃるお姿に御出会いすれば、あー仏様に御出会いなさって、信心歓喜。受け難き人の身を戴き、絶対に遭えない如来のお働きを感ずる心を戴き、生かされている身の幸せに、頭を下げ、この身を十重二十重に抱き取って生かしきっている未見の力に対して、あまりにも不遜なあり方ではないかと恥じ入る他に無い身の事実にきずかない限り、人間の尊厳を取り戻す術(スベ)はありません。この頃年老の積もるかたがたの葬儀に会う事が多くなりました。九十を過ぎた方々のお棺の前に立って、来し方の御姿を思い浮かべながら御苦労様でした。と、どんなに拝んでみてもそれは到底人間業では無く、如来様とお二人ずれの世渡りであったなーと思い知らされるこの頃でございます。今こそ、本当に今こそ如来様と二人ずれの日暮しである事に目覚めなければ、久遠劫よりの御恩を踏みつけて終わる事になってしまいます。
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