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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第386号
2008年2月1日発行

浄土の真宗
弥陀の本願信ずべし

 弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人は皆 摂取不捨の利益にて 無上覚をば悟るなり この御和讃は表の扉に掲げましたように、親鸞聖人八十五歳二月九日の朝、夢の中でお聞きになった御和讃で嬉しさのあまり書き残した。と記して末法の世の仏道、亦これは永遠真実の道理である事をお示しになったのが、親鸞聖人の御恩そのものであります。三世諸佛の歩みは、人道成就にあります。仏教は本々人間探求のほかにありません。人間いかに生きるべきか。生老病死の渦中にあって、無常なればこそ、今日をおいて他に生きる場も時も有りません。御挨拶に「今日は」と言い合いますが、掛け替えのない今日を失はず、間違いなく生きておりますか、と尋ね合う大事な言葉であり、私達がまことの御経と頂いている「大無量壽経」の中に出て来るお言葉であります。イノチを大切にと言い合いながら、如何にイノチを見失っているか、知る人はあまりないと言っても過言では無い様に思われます。人間のイノチ。それは知ると言う事でしょうか。考える故に我あり。我は意識の上に存在を確認しています。でもその確認。永遠不滅の真理に照らしあっての確認でしょうか。ただ単なる個人の思い込みの確認で留まっているとしたら、それは空中にうかんだ雲のように、流れて消えてゆく幻に過ぎないとしたら大変な事になってしまいます。それこそ掛け替えのない人生を、徒労の中に空しく流れて消えて行く浮雲のような人生であっては、せっかく生まれさせて下さった働きのご恩に報いる事なく、身と環境と意識と時間を空費してしまっては申し訳ない事であり、最大の罪と言わなければなりません。「罪悪深重」と言う事はその事なんです。何も他人に対して罪を作ったと言う意味ではありません。親鸞聖人が「罪悪深重 煩悩熾盛」「悪人正機」等をはじめ、心は蛇蝎の如く無慚無愧にて果てもせん。と述べられますが、法然上人は善人も悪人も平等に如来様は抱きとって助けて下さると言う大らかな御姿が好き。と言う方がいらっしゃいますが法然上人自身、愚痴十悪の身と言う自覚の上に立って
その様な悪人を平等にお助け下さるお念仏の働きを説いて下さってあって、法然上人が直接救って下さるわけではありませんね。阿弥陀様がお念仏となって一人一人のイノチの中で私を照らし如来の我を回向して凡夫と共に生涯を共にして涅槃に導いて下さるのであります。真の知識に遭う事は難きが中に尚難し。情報過剰のなかにあって、真の情報は何処にあるのか。マスコミの、電波と印刷、真実を伝えているでしょうか。また人間自体、自己の真実を包み隠さず、表明しているでしょうか。自分で自分を見る限り、自己の物差しにピタッと合う良き自分しかありません。あるのは間違った他人があまりにも多く存在するばかりでありますから、勝手に自己認識に立って、他の抹殺に奔走している現状こそ、世界をあげての様相となっています。政治、経済、スポーツ、それを動かす権力者。マトモナ人間社会建設の理念に立って権力の場に奉仕しているでしょうか。昨年の一年間状態を漢字一字に表して「偽」と言う字が取上げられましたが、「偽装」「偽証」に明け暮れている様相から一歩も抜け出せないのが実情ではないでしょうか。ただそこに久遠の歴史を通して働き続けていて下さるのが、阿弥陀佛の御本願であります。昨年は親鸞聖人御流罪八百年の年でしたが、親鸞聖人が書き残された「教行信証」の後書きに、流罪後五年にして許されて御師匠法然上人は京都にお帰りになったと記していらっしゃいますが、御本人親鸞聖人自身も許されたと言う文言が無いので、今も尚流罪中として、今年の年賀状に「流罪八百一年」と記して下さった方もありましたが、阿弥陀佛の御本願の前に立った時、五年で許されるような代物では無くて、地獄は一定の自覚の上に、本願念仏の、永遠真実の大行に生かされる身の慶びは光明の中の人生と転じて下さいます。