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熊本県長洲町安正寺
エコウ1月号第385号
2008年1月1日発行
浄土の真宗
唯念仏して光明摂取の中
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流罪八百年と言われた平成十九年を経て、新しく二十年をお迎えしましたが、一年を振り返って、漢字一字に表された文字が「偽」と言う字で、墨書した清水寺管長が、此の字はまことに残念で嘆かわしい至りと、深い悲しみを表していましたが、「偽」一杯の一年でしたね。
偽は真に対し仮にたいする言で、流罪八百年の言葉も、それぞれ違っていましたね。東本願寺では其の儘を使用し、西本願寺では、興教八百年と言い、浄土宗は、朝恩八百年と表していました。親鸞聖人の真蹟には、罪科を考えず、猥りがわしく死罪、遠流に処す。予はその一なり。然ればすでに非僧非俗、禿の字をもって姓とす。此処から愚禿釈親鸞の出発があります。妻を娶り子を設け、人間自然の形態にしたがって真実に生きる道を求めて天親、曇鸞の教えにしたがって親鸞と名乗られます。天親菩薩は真に生きる道は、真実に生きる人、釈迦牟尼仏陀、その仏陀が帰依する阿弥陀佛の働きは二尊一致の精神である、十方衆生の智慧に依る生活の中心である一心の仏力他力こそ真実道である事を明らかにして下さったのですね。考える葦と言われる、か弱き人間、人災天災自災に依って苦悩の中に生きる民衆、「偽」の真っ只中に翻弄される民衆、亦か亦かと眉を潜めながらじっと耐えなければならない民衆の苦悩を一身に受けて、その身が如何にして真に生きるか、その道や如何と、その他に無い聖人の歩みが大作「教行信証」となり、その他多くの著作として残されています。そこで明らかにして下さったのが、浄土の真宗であります。浄土と言うは佛の世界を言います。佛は願いを持っていらっしゃいます。十方世界に佛は限りなくいらっしゃいます、阿弥陀佛の誓願の十七番目に十方世界の無量の諸仏は私の名である南無阿弥陀仏と言う名を知らない佛は無く、その名に依る功徳の広大にして確かなる事を熟知して、誉め称えずには居られないであろう、亦その名を称える人があったら、心身を揚げてその人を護る一心に身を置くに違いない。と約束をしていらっしゃいます。昨年の暮れ、禅宗のお坊さんがラジオ放送で禅宗のイノチである座禅の行も出来なくなった寝たきりの老僧が、南無阿弥陀仏と称名念仏に余念がなかったと対談していらしゃいましたが、親鸞聖人がお示しになる念仏は人間の努力を必要としない阿弥陀佛自体の行でありますから、他力の念仏とお示しになり、歎異抄には、念仏は一切の人を真の心と真の生活に立たしめんとする如来の現実相でありますから、称えている人の行では無く、阿弥陀様が声となって功徳の全体を一人の身の上に開いて下さるのでありますから、求めず知らざるに、大いなる功徳利益が目の当たりに頂く事が出来るのであります。これを歎異抄第一に「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて」と言い、即の時、摂取不捨の利益に預けられ参らせて、自ずから慶びのお念仏となって今日の一日を永遠の充実した一日として御回向下さるのであります。 | |