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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第384号
2007年12月1日発行

出離の強縁
本願成就の南無阿弥陀仏

 一年最後の月を向かえて、年月の過ぎ去る速さは年毎に強く感じられるようになって来るのを覚えます。生老病死の苦は釈尊出家の因ともなり、そこからあらためて人間必須の問題解決の課題が掲げられて来たのですが、その一つ一つが、釈尊によって解明されて来たのであります。苦の因は何処にあるのか。それは根源に無明が揚げられます。無明と言うのは、真理への無知。存在成立の現象原理の無知。いっさいを存在せしめる根源的原理への無知。そこには、そこにあらしめられている深義の了解不足に依る事は明白であります。釈迦牟尼仏陀の言説はこれら一切の無知からの開放を持っております。仏教は経典として現在まで受け継ぎ伝えられています。経(キョウ)は、縦糸を表し、あらゆる時を通して偽りなき真理を表しています。その真理に則り歩めば道を踏み外す事は有り得ません。この事を佛意に随順し、仏語に随順す。と述べられ、仏説をよくよく聴聞する事を特に願われているのであります。何故か?。それは釈尊自ら実験し、実証された事をのみ説かれているからなのです。だから仏説を、身をもって聴聞する時、釈尊と同じく実証する事が出来るのであります。その事が明らかになるまで三千年の歴史が必要でありました。つまり人間世界の営みは、科学的、物理的、数理的、心情的分別の上に立てられた理論によって進められたものであって、余すところなき一人一人のイノチの根源にまで深く掘り下げた真理道理の奥底からの言説に身をもって遇う事が困難である事が知らされます。それはイノチそのものを見る事が出来ないからです。イノチは私達を平等に生かしています。生かされている事に上下はありません。生かされている姿形だけに囚われて差別観の分別に惑わされ、その意味するところを察知出来ないところに、苦悩の世界からの開放を妨げている事に目覚める事が無いところに、無終の闇夜流転の世界が今現在している現実があります。一度きりの人生。「宝の山に入りて、手を空しくして帰る」事であっては一大事。せっかくの人生。不平不満のかたまりで、他を恨み、世を儚んで終わる事があっては、私を生かし続けて来て下さった如来様に申し訳無い事になってしまいます。「出離の強縁」それは、如来の本願力を言います。絶対他力。他力佛力に依るより他に、私の全体を一挙に解決する道はありません。実は、一切の善人悪人を問わず。確実に迷い苦しみの世界から一瞬にして歓喜の世界に生まれしむる信行を成就して、一人一人の身と一つになって、行じ続けていらっしゃる働きの声こそ「南無阿弥陀仏」の称名お念仏であります。親鸞聖人は、お念仏を「真如一實の功徳宝海」なり。と、お示しになります。「真如」と言うのは、真の世界。間違いなき世界。人間の世界に於いては、間違いなき世界は、自己の分別の世界をどこまでも立てて行きます。その為に、他の分別の世界を何処までも否定して行かなければ落ち着く事が出来ません。其の儘では自分の立つ瀬がないからです。でも、自分の立つ瀬を掴んだとしても、落ち着けないものです。何故ならば、悩み苦しむ者が、傍にいつも居る事になれば、良い気分になる事は不可能でありますから、憂い、悲しみ、悩み、苦しみから離れる事は出来ません。そこに一切の人を思い、一切の人と共に、一切の人間苦を大悲し同苦し、その中に一切が願い求める世界の姿を浄土として顕現し、その内容として清浄真実心の行としての「南無阿弥陀仏」の名を、如来の名として、一念一刹那もその心を離れず行じ続けていらっしゃいます。お念仏は如来様自身の名であり、必ず、苦悩を抜本的に清浄ならしめて、清浄歓喜の世界に即刻生まれしめて下さる働きこそ、この世にたった一つの弥陀の誓願、不可称不可説不可思議の功徳成就せる、本願成就の「南無阿弥陀仏」の、お念仏である事を大無量壽経に説き置かれました。