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熊本県長洲町安正寺
エコウ11月号第383号
2007年11月1日発行
出離の強縁
本開かれる無碍の一心
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曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし。これは親鸞聖人が二十年の、比叡山での歩みを通して出家仏道が、いかに難行苦行であり、大衆の道では無い事を痛感し、聖徳太子の示現によって法然上人に会い、そこで得られた本願念仏の道こそ、一人も漏らさぬ真の仏道である事に目覚め、人生畢竟依なる縁に遇い得た慶びを表された和讃ですね。今年の題である、「出離の強縁」はここから頂いたものですが、一切善悪の凡夫人が、聞即信のたちどころに広大無碍の大信海に生まれ生きる身となると言う働きに浴する喜びを浄土の真宗として公表されたのでありました。仏教伝説三千年。難行易行の道は今、それこそ多く説き行われておりますが、似て非なる宗教が横行する中で、真実の仏道として、今生き生きと働いて下さってある宗教として、念仏往生。念仏成仏。浄土真宗として顕開された親鸞聖人の教えこそ、自らお示しになって下さった、在世、正法、像末、法滅の一切を、悪業煩悩の渦中から離脱せしめる強力なる力として示されるのが大願業力、本願力、仏力、他力であります。他力と言うは、本願力なり、と示されるように、人間の煩悩悪業から離脱せしむる働きは阿弥陀佛の本願力仏力のほかにはありません。何故ならば、迷うも悟るも自らの意識の能力の他には無く、他からの決定は不可能であります。独生、独死、独去、独来。独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。人生一人一人の歩みであって、誰も代わる事は出来ません。その中には、憂い悲しみ悩み苦しむ事は際限無く続行されて行きます。その一つ一つを体験して行く人生は、年老が積もれば積もる程、力が弱まれば弱まる程不足不満はいよいよ募り、世を厭い逃げ出したい思いは激しく、今日の世相が余すところ無く現れ、マスコミを賑やかし、嘆く会話が人の集まる所に噴出しております。煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界よろずの事皆もってそらごとたわごとまことある事なし、唯念仏のみぞまことにておわします。とこそ親鸞聖人のお言葉が今に輝いています。念仏は阿弥陀仏の真実心と阿弥陀仏の真実の行業が共に一つになって念仏申す人の全心身に現れて、如来の心身が私の心身を抱き取って、仏心の世界に引き入れて下さる事実が、知らされるのであります。自分の意識の中に、仏心が表れて下さる所に、私の中に私でない尊い働きに出会う時、心底から敬い仰ぐ帰命の心が噴出して参ります。その時、私が私でありながら、私でない私に会う事が出来ます。それを、曽我先生が、我は如来なり、されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救い給う。「我」と世界に名乗って下さったのは、阿弥陀仏の他にはありません。その「我」は一切平等に智慧、慈悲、安穏の浄土の世界に永遠に生きる身とせずにおかぬと発願しその行を成就し、その功徳を漏らさず一切に施して一人も漏らさず、如来と等しく無碍なる生を全うし、衆生の光となる身を成就して南無阿弥陀仏の声となって、佛の声は人の心を底から開いて下さいます。十重二十重に括りつけて、シッカリと鍵をかけた我執の扉を、内側からスッと開いて下さるのが、如来様の本願力回向、不可思議なる清浄歓喜智慧の功徳に依るものであります。念仏は天親菩薩が阿弥陀様の事を「帰命尽十方無碍光如来」と仰がれました。私のイノチは十方世界に満ち満ちて障りなき世界を成就し、明るい光をもって照らし尽くして、常に休まずお守り下さっている佛様と仰がれたのでありました。人間の喜怒哀楽を根こそぎひっくり返して、真実の心と実践を念仏の声に込めて四六時中、休み無く働き続けて下さってある事実に納得し、情(オモイ)を仏心にまかせ、久遠劫より私一人の為に掛けてくださる、阿弥陀仏の御本願の大地に立たせて頂く時、広大無碍の一心の世界が開かれて参ります。
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