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熊本県長洲町安正寺
エコウ9月号第381号
2007年9月1日発行
出離の強縁
不可称、不可説、不可思議の願力
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お彼岸は、悲願の大地。と今月の言葉に表記しましたが、お彼岸は、仏陀がお示しになる人間として生きる最後の天地。真の世界を表しています。また親鸞聖人は畢竟依(ヒッキョウエ)と、お示しになり、最後の拠り所と、お示しになります。歎異抄の第二章に「おのおの十余カ国の境を越えて訪ね来たらしめ給う御こころざし、偏に往生極楽の道を問い聞かんが為なり。と親鸞聖人のお言葉が述べられます。人として生まれ、人として生き、人として終わるには、人そのものの解明が必要になってまいります。人そのものを深く探求したものこそ仏陀の教え仏教そのものであります。人は真実そのものを求めずにはおれません。と言うより真実そのものが人の中にあって、真実を求めさせ続けられている存在である事を知らせる処に仏教があります。親鸞聖人が真実の教は大無量壽経これなり。と、お示しになり。その故は、阿弥陀仏の本願が説かれ、その本願が成就して南無阿弥陀仏の名をもって十方衆生に如来のイノチを回向して下さる法則としてのイノチが現実のものとして働いて下さる事実をもって浄土の真宗とお示しになりました。もしは信、もしは行、一つとして阿弥陀如来の回向成就し賜るもので無い物は無い、とまでも明らかにして下さったのであります。南無阿弥陀仏の一言に弥陀の本願の総てが成就し回向して下さってあります。
本願の世界はお念仏にあります。念仏申さんと思い立つ心の起こるも如来回向の現実のすがたであります。
煩悩妄念の只中にお念仏が働いて下さいます。文類聚鈔の終わりに、煩悩を断ぜしめずして、速やかに大涅槃を証すとなり。と書き留めて下さいました。普通一般に、涅槃=サトリを得る為には、迷いの煩悩の心を断絶しなければなりません。煩悩のままサトリを開く事はできません。煩悩即菩提(ボンノウソクボダイ)と言う表現がありますが、思いの世界では許されても現実には、虚妄の虚偽の実相であって安心の世界には遥かに遠い世界であって、久遠劫よりの流転の繰り返しの連続にすぎません。
今此処に、永劫流転の身を棄てて、偏に弥陀の本願の呼びかけに随って、お念仏に身をまかせる時、本願力によって、正定聚不退転(ショウジョウジュフタイテン)の位置に席が与えられ、菩薩と同格の座を持つ事ができます。これを無碍の一道と、歎異抄には述べられます。人間最高の認識、それは如来の智慧の他にありません。しかしその智慧は人間の努力で持つ事は出来ません。人間の認識には限界があり、一切智には届きようもありません。限界内の認識以外にはありません。と言う事を認識させられる時、限界内の認識が、無限界の認識の中に見出されて初めて、無限界の認識に触れて、限界内の認識を見出した時、限界内の認識のまま、無限界のにんしきを持つ事が出来る処に本願力回向の浄土真宗の他力真実の信心の世界に生かされる事実に立たされる喜びを、信心歓喜と、佛に誉められ、親しき友よと、呼びかけられる身の喜びを願力自然の必然性の上に、真に(マコトニ)思い知らされる事となります。
本願力の自然性の事実の上に立って、思いがけなく人間の喜怒哀楽を超えさせて頂く時、自然に無理なく、一切の喜怒哀楽を自己の責任に於いて全うさせて頂く事が出来ます。それは間違いだらけの事実のマンマ、間違いなき仏力に摂取されて、虚仮不実の現実を、真実そのものの中に抱きかかえて、真実そのものにして下さった現実を、南無阿弥陀仏のお声の中に自身を見出させて頂く事を、真実の信心と教えて下さってあります。光と闇。全く違った性質の物が、同時に同体に実現するところに、不可称、不可説、不可思議の功徳の成就があります。
それを願力不思議と称えられ(タタエラレ)ます。称えられる処に、称名念仏の事実があり、親鸞聖人はお念仏を、功徳の大宝海なりと歓喜し賛嘆していらっしゃいます。
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