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熊本県長洲町安正寺

エコウ8月号第380号
2007年8月1日発行

出離の強縁
聞こえた一念即得往生

 盂蘭盆会法要の月、各地にそれぞれ受け継ぎ伝えられたお盆の行事、亡き方達を思う心に違いはあっても、手を合わせて仰ぐ身に伝わって来るイノチの響き、深いものがありますね。
 親子の関係、夫婦の関係、兄弟姉妹、縁故親戚、師弟同僚、なんと広く深い関係性の中に生かされている事か、亡き人も在る人も同じ世界に出会う時こそ、盂蘭盆会法要の時です。
 迎え火、送り火、精霊流し。人間の思いを立てて、思いで済ませている事の過ちを見定める事が、どんなにか待たれている事でしょう。
 生まれ生まれて、生まれる前を知らず。死んで死に行く先を知らず。生死流転と輪廻の渦から抜け出す術を知らずに今日の日に迷う。
 出離の強縁と題して八回、実は人生の始まりは弥陀の本願に遇わして頂く処から始まります。それまでは無我夢中、春夏秋冬、自己と環境の調和に心を掛けながら、思いに反する現状に苦悩し反逆し嫉妬し恨み、安らぐ時を失っている相の中に、遠劫より働き続けて来て下さった真のイノチの教えこそ南無阿弥陀仏の音声(オンジョウ)であります。真の心の響きであります。親鸞聖人は、お釈迦様がお説きになった一切の経典の中から唯一つ、大無量壽経を頂いて真実の教と教えられました。
 真実の教を顕さば、大無量壽経是なり。何故かと問えば、そこには、十方衆生なべて斉しく同じように佛(智者、覚者)となる道が説かれてあるからです。佛は、自利利他円満(ジリリタエンマン)の人です。また自覚覚他覚行窮満(ジカクカクタカクギョウグウマン)の人です。この世ではまさに三千年の昔インドにお出ましになった釈迦牟尼世尊その人であります。それから幾代の時代を経て、時々に高僧の姿を現してその教えを身に戴して時の教えとして明らかに書を残して下さいました。其の一貫した教えこそ一心と言うイノチの根源を言い当てて下さってあります。その一心こそ阿弥陀仏の至心であります。
 弥陀の本願第十八に、至心信楽欲生我国(シシンシンギョウヨクショウガコク)阿弥陀仏のお心が示されてあります。親の心は一心であります。親と言っても、世の親ではありません。一切衆生の親様です。一切衆生のいちいちのイノチの中に至り届いて下さったイノチの音の声を音声(オンジョウ)と言い、南無阿弥陀仏と聞こえて参ります。その声は清浄真実の心の声です。信と言う疑心無き心、心の中に染み入る心。一つになって離れぬ心、喜びに満ちた満足な心。この心の中に目覚めてほしい。その心は十方微塵世界(ジッポウミジンセカイ)に充満して人間の思い計らいの中に満ち満ちています。私達の思い計らいのその中に常に同時に如来のお心が働き続けられています。思い計らいだけに留まらず、翻って如来の声を聴く、大慈大悲のお心を知る、お念仏する時、間違いだらけのその中に我がイノチとなって下さってある仏様のお働きが身に応えて来るはずです。これを中国の善導大師が称名は即懺悔であり即賛嘆であり即供養であると諭されます。そこに世の思い計らいを超えて、佛の計らいである五劫に思惟された出世の善根の性である生命の壽に帰らして頂くのを往生と言い、それを即得往生と言い、人間の生のまま如来の生に生かされて行く身となるのを即得往生と言って、真の仏道を教えて下さったのが浄土真宗親鸞聖人のみ教えであります」。それは偏に如来本願のお力であれば、人間自力の力は露塵(ツユチリ)ばかりも差し入れるスキマもありません。これを自力無効と教えられます。善導大師は自然(ジネン)は弥陀の浄土と仰がれます。浄土からのお働きとして釈迦牟尼如来がお出ましになられました。宇宙全体に満ち満ちてまします如来の性を法性(ホッショウ)と言い、法性を大慈悲と言い、大慈悲の体を南無阿弥陀仏と言う声と名に成就して生死の苦界を離れず離れて、煩悩を持ったまんま大悲の本願力の親心の中に住まわせて頂くのを出離の強縁と言います。