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熊本県長洲町安正寺

エコウ4月号第377号
2007年5月1日発行

出離の強縁
おお念仏は身と心の真生源

 五月は四月の末から連休が続いて、もともと浮かれている人間を愈愈浮かれさせてしまう事になります。いや、ちっとも浮かれてはいないと言う人が現れますが、じゃあ、世界の真実と方向が見えますか、と尋ねてみて、返答が出来るでしょうか。人間として生まれ、人間として生きる、その始末は出来ているでしょうか。お釈迦様は人間の生涯における一大事の問題を華厳と涅槃。最初に説かれた教典が華厳経。最後に説かれた教典が涅槃経。華厳と言うのは、人間に生まれたこの世界は、佛華荘厳(ブッケショウゴン)、仏様のお心の花によって満ち満ちている世界でありその世界が見えて来なければ人間世界に生まれたと言う事にならないと示されます。奈良の大仏は宇宙に働いている佛を表しています。其の中に人間も一切と共に生かされている事を示しています。「流れ流れてどこどこ行くの」人生の流れ、それ秋も去り、春も去り、流れ流れて何処へたどり着くのでしょうか。昔からこの世を生きる事を「渡世」(トセ)と言ってましたが、世を渡る事ですね。渡ると言う事は人生の流れを渡って永遠真実の世界に眼を開く事を教えた、仏教の言葉から来ているものなんです。眼を開くと言う事は現在ただ今その真実を知る事ですね。真実の心と働きが「華」として示されます。花を咲かそうよ。と歌っていますが、特別に何かに、どうかならなければならないと言う事ではないのです。真実の花が世界に身に満ち満ちている事に気がつく事が大事な事なんですね。お釈迦様は世界の真実、心の真実をはっきりとお示しになります。本当の人間になってほしい、本当の人間の心を持ってほしい、身も心も一つにして生きてほしい、身と心の分断が現代世間の弊害を齎して居ます。神道で言うお祓い、清めると言う事なんですが、清めても清めても清まらないから、その度ごとにお祓いをしなければならない事になってきます。国際連合、六カ国協議、何を持って来ても解決には程遠い現実があります。世界の事、国内の事、社会の事、家庭内の事、人間関係、何れをとって見ても完全解決は不可能な様ですが、此処に道ありと叫び続けて来た歴史の行こそ、お念仏の声であります。お釈迦様を世尊と仰ぎ、如来様と言います。如と言うのは、一切の世界に働いている真実なる智慧を表しています。その根源を「澄心」(チョウシン)と言います。煩悩に覆われている自己自身に目覚めさせられるのも、この澄心の働きによるものです。純粋なものの前に立ってみて初めて汚染された物を見る事ができるんですね。一番見えない物こそ、自己自身であります。一件落着は他の事であって、自己自身の決着にはなりませんね。自己自身の決着は、自己自身が何処に立っているかと言う事を見極める処にあります。清沢満之師がそこの処を、自己とは何ぞや絶対無限の如来の働きの心の中に生かされている身であり一つ一つの出来事の中に尋ねてみれば深い深い大慈悲のお心が染みとおった出来事であったと知らされた、と言われますね。この五月、越後で親鸞聖人御流罪八百年の記念法要がありますが、聖人自身、この流罪を如来回向の御縁として頂き、そこから仏法の真実を明らかにして下さったのでありますから、流罪こそ浄土真宗の興起を開いたものであって、そこから仏法の真実が明らかになって来たのであります。真の仏法。それは一切善悪大小凡愚の唯一つの道、如来が見極められた道、如来が実証された道、それが念仏の道であります。念仏と言っても、私たちが佛を思うと言う事ではなくて、久遠劫の古からずっと今日に至るまで念じ続けて来て下さった御護りの事実に目覚めてその御仏の御名(ミナ)を口に称える、南無阿弥陀仏、それが御仏の働きとその事に目覚めた人間の心が一つに結ばれたすがたを、お念仏と言い、最後の経典である、涅槃経に示される「一切衆生悉有仏性」私に届けられた如来の精神を表しています。佛に抱かれて生きる道です。