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熊本県長洲町安正寺
エコウ1月号第373号
2007年1月1日発行
出離の強縁
苦悩からの脱出
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昨年はイジメによる青少年の自殺が取り沙汰されて、教育、社会、青少年問題として大きく世論を喚起させた事でしたが、それぞれの部門で論議され、地域的に取り組んでいる団体の紹介がマスコミで発表されてはおりましたが、根本的にどうすれば善いのか、はっきりしていないようでした。
苦悩に落ち入っている人に対して早く誰かに相談しなさいと言ってみても、気楽に相談出来る人が傍に居れば苦悩する事もないんでしょうけど、特に戦後まっしぐらに経済復興に邁進して一応、世界きっての経済大国にまで上りきったその時、既に遅し、心の大地を見失っていました。「エコノミックアニマル」と、世界の国から揶揄されても、心の感覚が麻痺してしまって痛くも痒くもない人間のバックボーンとしての精神の喪失と言う痛ましい程の重き病いに犯されているのも分からず、ユトリの教育とか、皆で体育とか、苦悩する心を離れて眼を外に逸らさせ、経済の世界から政治まで利害損得の渦中に国民を引き落とし、勝ち組負け組みの範疇に雪崩れ込んだ状況は地獄そのものであり、地獄とも知らず歌い呆けて居る状況に繊細な心を持った小さな子供たちは悲しみの絶頂に追い込まれてしまった悲しみは如何にして救う事が出来るでしょうか。
戦後雨後の竹の子と譬えられるように新しい宗教が表れて来ましたが、別に新しい物では無く、形を変えた従来の御利益宗教の出現に他ありません。国王の王子として出生されたインドのお釈迦様はそれこそ至れり尽くせりの衣食住の中、人間が生きると言う事はどのような道があるのか明らかにせずに居られなくなり、結婚し子供が生まれて居ても自身の問題として、また総ての人間として、根本的に解決せずにはいられない思いを胸に求道の為出家し山上の修行に入って行かれますが六年の修行を止め、人間思考の内奥に深く尋ねて行かれ、一切業縁の究極に尋ね入り総てに働き続けるダンマの世界に出会われ、共に手を取り合える法則との交流が可能な道を発見されたのでありました。
爾来三千年。仏教が伝えられて参りましたが、宗祖親鸞聖人が浄土真宗をひらかれ真の仏教を開示し阿弥陀佛の行信に依る一切大衆の畢竟依を明らかにし逝いて七百五十年、釋尊が亡くなられて七百五十年にして龍樹菩薩がお出ましになり、行の難易を明かし、證の明確な不退位としての念仏をお示しになりました。親鸞聖人の眼に映った念仏の歴史。それは南無阿弥陀仏の本願精神が念仏の言葉として一切の衆生に行じている事実が、信心として輝き、その光は遍く凡夫の深心に届いて、愚昧の自覺を起こさせ、共に凡夫と言う、共に眞佛である阿弥陀如来に慈悲されている我等の自覺の中に、親の心を尋ねて行く同行として、労わりあい慰めあい励ましあう同朋の誕生があります。
るてんさんがいちゅうおんあいふのうだん流轉三界中 恩愛不能断 憂い悲しみ憎しみから離れられないのは、自我中心の自己を善しとする見解から離れられない所に起因する物であります。我在るが故に彼在り、彼在るが故に我在り。我滅する時彼滅し、彼滅する時我滅す。縁起の法こそ佛法であり、関係的存在こそ人間を表わします。人間の一人一人の関係を佛法は明らかにします。それを智慧と言います。佛法の智慧を戴けば、人間関係の縺れは解かれて行きます。てんじょうてんげゆいがどくそん天上天下唯我独尊 一人一人は絶対であり、無上尊であります。掛け替えの無い存在であり、誰にもないその人だけの価値を持って居ます。唯そこに自分で自分が見えないところに、我流が我慢となり、自慢となり自己見解の狭さく性となり、じゃけんきょうまん邪見驕慢のあくしゅじょう悪衆生となり、独尊が孤独になって自分で自分を追い詰めて被害者意識に囚われて、自分だけの世界に閉じこもり、折角の人間誕生が泡と消えては大宇宙界の大損害であります。佛法が目の前に。 |
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