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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第372号
2006年12月1日発行

為度群生彰一心
一心即ち真実心

 三十年来欠かさず毎月の定例法座に御参りなさった坂梨七千代さんが十月三十一日に八十九歳で亡くなられました。その月の十三日に、玉名の明正寺さんの正信偈講座に御参りなさったのが最後でしたが、十八日の当院の法座の準備をして前日具合悪くなり点滴から入院、十日間を経てお念仏の行の中に入ってゆかれました。いつも、前席の真ん中で、私一人の為と、体じゅうを耳にしての問法の姿でした。十年前までは、定例四ケ寺の法座に殆ど無欠席のようでした。柔軟なお顔には、戦後満洲からの引き揚げ時からの苦労に磨きを掛けて、問法の厳しさはいや増しに加わって行かれたようでした。同朋新聞でも紹介されたように、一家中の正信偈のお勤めは欠かす事はありませんでした。
 今は「自信教人信」のイノチの中に帰して、「大悲弘普化」の行の中に生きていらっしゃいます。三十年来の法座は坂梨さんと私との聞法の歩みでありました。勿論皆さんお一人お一人との聞法の座でありましても、十方衆生と呼びかけられる御本願のお言葉は、十方衆生の一人に呼びかけられるものであって、親鸞一人が為なりけりの、お言葉の中に、信ずるほかに別の子細なきなりと言う一心が込められています。
 その一心は、親鸞聖人が、「疑蓋無雑」(ギガイムゾウ)トお示しになりますが、疑念や雑念が加わる事の無い、純粋にその事一つに関わって悔いる事の無い行の心、それはお釈迦様がこの世にお出ましになり、真実の法、如来の法、「佛佛相念」(ブツブツソウネン」法、南無阿弥陀仏の仏道、本願名号の佛法に衆生を一心の世界に抱き摂って煩悩妄念 (ボンノウモウネン) の心の中に、純粋無雑の如来の大悲心の一心が開かれる道として、お念仏が呼びかけられているのであります。お念仏は如来の呼びかけ、お釈迦様が、お弟子たちに語られるお言葉がそのまま、釈迦牟尼如来のお呼びかけ、そのお呼びかけを先ず目の前で確かに聞いた人、それが阿難さんでした。お釈迦様を前にして、お釈迦様を如来様と仰ぐ事が出来たのです。それは如来様のお心に出会う事が出来たからです。如来様のお心は唯一つ、真実心に目覚めさせる事の他にありません。真実心は本願として大無量壽経に余す所無く説き尽くされています。親鸞聖人の御誕生は唯この本願の御教えをツブサニお示しになる事の他にありませんでした。本願は十方衆生を一人も漏らさず、真実の国に生まれしめ、真実の国の住人としての人生を全うせしめる事の他にはありません。核保有の問題がクローズアップし、憲法改正の問題、教育基本法の改正と言っても、人間各別の分別をどれだけ論議しても、人間の分別の域を出る事は出来ないでしょう。その限りにおいて、仏教が示す「涅槃寂静」(ネハンジャクジョウ)の世界体得には永遠の隔絶があります。
 唯一の法「称名念仏」の行は如来自らの行でありますから、お念仏は如来の一心が衆生の八万四千の心を抱き摂り、八万四千の心の一つ一つに一心を住まわせて下さりますので、お念仏の処に純粋無雑(ジュンスイムゾウ)の一心が輝き照らして明と闇。邪と正。の一線が明確に照らし出され、「一向専念無量壽佛」(イッコウセンネンムリョウジュブツ)唯ひたすら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と無量寿仏の、み名を称えれば、如来の信行が入り満ちて一切の凡夫の心行がそのまま涅槃のイノチが働いて、如来と等しく共に歩かせて頂いている、尊い人生が回向されて来ます。「信心歡喜乃至一念」(シンジンカンギナイシイチネン)真実心に出会えた喜びは、真実心に動かされ生かされて居る人の言葉に出会えた喜びでありますから、それはそのまま、久遠劫来(クオンゴウライ)昔の昔ずっと昔から、私一人の為に呼びかけていて下さった如来のお心でありますから、有難う御座いましたと頂く一心が「至心回向」如来様がお与え下さる信(マコト)の一心であります。