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熊本県長洲町安正寺

エコウ11月号第371号
2006年11月1日発行

為度群生彰一心
一心成就のお念仏

 十一月お霜月、親鸞聖人満九十年の生涯を終えて、本願念仏のイノチの中に身を置いて今此処に働いていらっしゃるお声が「世の中安穏なれ佛法広まれかし」であります。
 承元の法難と言われる、念仏門閉鎖、開祖法然上人を筆頭に死刑、お預け、遠流、流罪。宗教界、文化人、政治家一様に手を取って念仏弾圧に加わった。親鸞聖人は越後の国に配流。五年の歳月を経て許され、関東の地へ「非僧非俗」の身を宣言し「正道大慈悲」の道の宣布に立たれたのでありました。
 それから八百年。歴史は六道流転の行相を繰り返しながら、正法から遠ざかる流れは強く、今に尚自力我執の鎧を固め「天上天下唯我独尊」の釋尊の真心が汲み取れずにいる現況は、愈々如来大悲の御心を踏みにじり、本願の真心に背き逆らい、愈々無明闇黒の世相を積み重ねて行く人心の流れ親鸞聖人の悲嘆の涙は枯れる事はないでしょう。
 末法五濁の世となりて、畢竟帰すべき処を知らず、唯、属する党の保守と個人的利益の追求のみに心を労費して明日にイノチ迫るを知らず、終に人として生まれた事も、何をなすべきかも知らず、終わって行くのでしょうか。
 知識と智慧、真の人間。人の人たる所以を尋ね、終にその根源を尋ねあて、その根源に還って行かれたのが釋尊の仏教であり、親鸞聖人の浄土真宗であります。
 然し、その道は説かれ、聞かれ、受け継ぎ伝えて三千年、今に汝と呼ばれる自己自身の為であったときずかされる事のなんと難しい事であったか、なればこそ愈々、親鸞一人が為なりけり、の自覚こそ、自己自身の使命感に立たされる時でもあったと思われます。
 其処から宗祖は全生命を掛けて、真実の佛法の開明に当たられたのであります。それは比叡山に於ける出家者の道。釋尊が、如何に学問修行に身を置いても、全人が間違いなく其の侭、真に喜んで生きて行く道の体得には結ばれないであろう。と言う金言に頷きつつも、では何処に、その道ありや。観世音菩薩、聖徳太子の御示現に耳を傾け、イノチの限りを尽くして求めて行かれて、法然上人の説かれる「本願念仏」の門を尋ね、雨にも風にも如何なる大事にも、それを越え、念仏の本に本願があった事に目覚められ、念仏は本願の現行。本願は如来の至念。衆生を真の国の住人としたい。それより先ず、真の国の建設が先と、浄土が建立されたのでありました。その国の柱は「智慧と慈悲」によって建てられてあります。智慧は光。慈悲は壽。光とイノチ。明るい生活を満喫する国。智慧も慈悲も、それは如来のイノチそのものでありますから、如来は智慧であり慈悲でありつつ衆生の一人一人の処に至り来たって衆生の智慧となり慈悲となり切って働いて下さってあるありのままの相がお念仏であります。法然上人は唯念仏せよと教えられます。お念仏の他に、人間が正しくなる道はありません。ある事はあります。釋尊が既に八っつの道を示していらっしゃいます。八正道。@正しく見るA正しく思うB正しい言葉を使うC正しい行いD正しい生活E正しい努力F正しい願いG正しい心。どれ一つ実行不可能でしょう。でも間違っては居ない筈です。正しい道でありながら、この身では歩けませんね。不謹慎な言葉。差別者の目と心。親鸞聖人は一心に学問に励み。修行にうちこんで来られた挙句。心は蛇蝎(ダカツ)の如しと嘆き、身の現実相に暗く、真の如来がイノチを掛けて衆生の一人一人の身のイノチの処に来たって我に依れ、我をたのめ、我は如来、我は法、法は一切を包み一切を生かし一切の真を護って実(ジツ)に実らせずにおかぬと一心に行じ一心に呼びかけ一心に念じて下さっていらっしゃるイノチの声が一心成就のお念仏であります。如来の一心は、お念仏となって一人一人を抱きしめていらっしゃいます。