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熊本県長洲町安正寺
エコウ10月号第370号
2006年10月1日発行
為度群生彰一心
お六字は一心の実りの花
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お彼岸の不寒不熱の季節を過ぎて、十月採り入れの時を迎えました。六、七月の田植えの時を経て、数ヶ月の手入れは殆ど、機械化されましたが、生と生との営みはイノチの部類に属しますから、いい加減な処置は全く許される事はありません。また許したとしてもその責任は紛れも無く当事者がどんなに逃げ回っても最終的に責任を持たざるを得なくなってまいります。それが因果の道理なんですね。
私達の日常生活は、欲覚、瞋覚、害覚と大経の中にお釈迦様が、法蔵菩薩の修行は欲と瞋りと害心を離れ、一念一刹那も利他の心を離れる事はなかった。と釋尊は弟子たちに述べられたのでしたが、私達は利己心から離れる事はそれこそ一刹那もなかったと言う事が出来ますね。そんな事は無いと言う反論がありそうですが、実は他の人の事を考えるとしても、その人に最初から意向を聞くと言う所から出発する事は無かったと言えますね。他の人の為と言っても、自分の意思分別を本にして考えている以上、他の為と言いながら、自分の考えを立てている以上、他の為とは全く相反した結果を生み出して居る事が現実ではないかと思われて来ますね。
そこから人間の善意が実を結ばず、返って争いの種になって行く現実があります。
四十一年ぶりに男子誕生の天皇家に贈る祝賀の心は、否応無しに沸き起こった国民の喜びではありましたが、そこに大きな差別心があって慶びの蔭に、憂い悲しみが起きている事実は隠しようもありませんね。
そこに、喜怒哀楽の人生にあって、如何に人生を間違いなく生きて行く事が出来るか、釋尊の教え、仏陀の教え、正法は何処に有りや。
親鸞聖人の生涯はその事一つを顕かにされる事でありました。真実の教えは「大無量壽経」の他にありません。それは、老少善悪、貧富貴賎、一切の分別による差別を超えて、平等に与えられている一心の回向、一心は二心無き心。二心無き心は全く疑心無し。疑心無ければ「信」そのもの。信は真で本心を成長せしめる本体を本願と言います。「願」は他己を自己とします。本願は他力。「他力と言うは本願力なり」これは親鸞聖人のお言葉ですが、本願力はお念仏の働きを言います。総ての人の身心を輝くものタラシメンと働くイノチの力。尽十方に働くイノチ。心の眼「マナコ」を開かせんと働くイノチ。これが本願のイノチ、如来のイノチ。念仏のイノチ。何時でも何処でも働いて居るイノチ。私と共にあるイノチなればこそ、何時でも何処でも離れぬ一心のイノチ。そのイノチは働かない時は無いわけで、働いている以上、現実には、一心を失っている事実があります。いわゆる分別心の世界、自と他、利と害、愛と憎、好と嫌、どこまでも自己愛のほかに分別心がないとすれば、我を拠り所とせよと言う願いに随う他に生きようは無かったと深く認識する事が即、一心の他力念仏の願成就を表わすものでありまして、阿弥陀佛の一心と、その一心を一心にお伝え下さった、釋尊の一心が煩悩具足の混迷する汚濁の妄想の中に、清浄願心に生かされる身である事実を有難うと一心なる現実力に目覚めさせられる処に、本願成就があり、即得往生があり、四六時中、如来願力所成の中に生かされている事実の認識こそ信心歡喜と表わされる、讃嘆と懺悔と報謝の心の結晶こそ、如来と共なる念仏の声として表わされる一心の心の華の存在を表わすものであります。
それを如来より賜りたる信心と言い、他力信心と言いますから、決して私の持ち物ではありませんから、一息一息、本願他力の事実の中にある事を確認させて頂く事が聞法であり、お念仏であります。
善導大師は「衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」と示され、どんな人でも、必ず、心の中に如来様の真心が明かるい光となって、花を開き、光を見る眼を一人一人に下さるんですね。
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