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熊本県長洲町安正寺
エコウ9月号第369号
2006年9月1日発行
為度群生彰一心
お彼岸は智慧の光の溢れる世界
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九月秋のお彼岸の時を迎えました。暑さ寒さも彼岸まで。これは大無量壽経上卷に示される言葉、「不寒不熱」「無四季」。「春夏秋冬」の無い世界。と言うのは、四季が有り無常の世界を包んでどの様な環境変化にも正念を失わず彼岸の光に照らされて惑う事無き正道を示して下さる所に親鸞聖人が真実の教えと示される「大無量壽経」の仏説があります。
「大無量壽経」の教えは、彼岸を示し、此岸を確かめ、此岸の根底に在る彼岸のイノチを確認し仏道である正道を確かに生きるところに人道である仏道を生きるところに仏教の本意、仏道の正道たる所以があります。 大無量壽経の異訳の経典に「過度人道経」があります。人として過ち無く生きて行く道を示している経典と言えます。
彼岸を親鸞聖人は「無量光明土」と頂かれます。そして其処にまします佛を「不可思議光如来」と示して、限りなく真実の光りを隈なく照らして一人も漏らさず歡喜の生活を全うせしめんと常恒に働き続ける如来を南無阿弥陀仏と名のり続ける眞佛と呼びかけ護られている衆生との関係を本願名号の信行として、浄土の真宗を顕かにして下さったのでありました。
本願は十方衆生の志願であります。志願は根本願。アラユル願の根底にある永遠の願。この願の発見によって、迷いの根源が照らし出されます。迷いと言うのは、真の欲求が定まらない所にあります。本当に願っているのは何か、人間の欲求には善し悪し並べて八萬四千と言はれますが、何が根本願なのか見極めがつかない所に凡夫の実態があります。永劫に流轉輪回の業報を受け続けなければならない現実があります。「戦争と平和」そのカギは何処にあるのか、「戦争」と言っても国との間。人との間。民族との間。思想との間。経済との間。見て行けば、限りなく間は広がって当に間と間の渦中に存在するのが人間であり、永遠に戦争は消える事は無い。その中に殺しあう戦争を完全に終結させる道を説く所に仏教の特性があります。
何故ならば、仏教は人知を超えています。超えている証拠にその道は人知では発見出来なかった事にあります。仏陀によって説かれた経典に浄土の三部経がありますが、アラユル経典を説時をもって決定しようとする思考があります。最初のサトリを説いた経典。最後のサトリの世界を説いた経典。その間の繋ぎとなる経典。どの経典が正しく佛意を説いた経典であるのか、どの経典も釈迦牟尼仏陀が説かれた経典であれば、正しくない説法は一つも無い。とすれば、如来の道と衆生の道を正しく開示し、その道が一つになる道こそ、仏陀説法の最終的結経と言うべきでしょう。そこに「仏説阿弥陀経」があります。「法華経」の説法は菩薩の利他行が中心になっています。何もかも仏陀を信頼し一心に利他行に邁進すればそこに仏道がある。と言う事でありますが、利他と言っても常に自身の保身にのみ更ける凡夫には、利他行の尊さは認識されても、現実の身が自己保身にのみ走る現実には、驚きと懺悔と自虐の他にない。その凡夫を、「凡夫」と言うのは、自ら正道を見出せず、見出しても歩く足を持たず、苦悶の中に漂流する他に道無き者を抱きとって正しく生きて下さる如来、それが「我は阿弥陀如来なり」と凡夫のイノチの中に来たり叫んで下さる御声が「南無阿弥陀仏」の尊号であります。「南無阿弥陀仏」は如来のお声、如来の叫び、慈悲と智慧との結晶の宝。親鸞聖人はお念仏を「功徳大宝海」と頂かれました。お念仏は智慧と慈悲の徳果。智慧と慈悲が華を開いて実となった宝。その宝は手に乗る程の形ではなくて、海の様に、一切を引き受け、其処に浮かばせ、永遠に生かし続けるイノチの本体の法を表わし、其処に如来と衆生とが離れる事の無い、衆生の機と如来の法とが一体となって働く海こそ「雲霧即是本願海」であります。
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