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熊本県長洲町安正寺
エコウ8月号第368号
2006年8月1日発行
為度群生彰一心
念仏者は如来一心金剛の行人
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温暖化現象で、愈々夏の暑さは厳しくなってきている様ですね。水位の上昇、海水温度の上昇に、南海植物の北上、世界の自然が破壊されて来る事は、生物の存続にも多大の影響を及ぼしつつある中に、なんと愚かにも、民族の分断と宗教上の純潔の名の下に殺しあう愚かな事を最高の行為の如く認識する信念は愚のなかの愚、いわゆる愚の骨頂と言わねばなりません。その愚が識者と言われる政治指導者のなかにあると聞けば、聖徳太子が共に皆凡夫なりと言う悲しみの中に抱かれる衆生の愚かさが分かれば篤く三宝を敬えと念じられる太子の悲願が偲ばれます。 世間虚仮、唯佛是真。太子は人間の自力我就の醜さ、それは自己を死守せんとする頑固なまでの幼稚さ、それは自己そのものの身心の内容が見出せていないからにほかありません。自分の考えは自分の考えであって、他人の考えではありません。それは当たり前の事であってなんの不審もありませんが、自分の考えがあるとなれば、他の考えもあって然るべきです。然しその何れかを採るとすれば、取捨の判断を何処に持ってゆくか途方に暮れる事になって行きます。其処に真実と言う事が問われてまいります。太子が言われる世間虚仮はその事を示しています。一方からだけから見た思考は、一辺倒であって、全体を見ていない。全体と言うのは、三世十方と一切の歴史を隈なく見る事です。三世とは、過去現在未来の流れ、そして十方、十方は四方八方上下。一切世界の全歴史。その一切がこの私と総て関連していると言う事です。親鸞聖人が、「弥陀五劫思惟の本願をよくよく案ずれば親鸞一人が為なりけり」と言われた事がその事を表わしています。「一即一切」「一切即一」三世十方と我とは別で無い。例えば親と子にしても、現実には親と子として生存し生きている。然しその親は今生の親に限らず、親の親の親まで遡り果てしなく生命の誕生まで遡る。その歴史を生き続けて来たのが紛れも無いこの私であると言うところに「親鸞一人の為と言う言葉があります。お釈迦様は二月十五日に八十年の生涯を終えられますが、「我阿闍世の為に涅槃に入らず」と宣言されます。阿闍世と言うのは、自己保存の煩悩に覆われている一切の人と解き示されます。親鸞一人と言うのは、煩悩の為に道を失い、罪業を重ね苦悩する凡夫を表わします。「如来の作願を尋ぬれば、苦悩の有情を捨てずして、回向を首としたまいて、大悲心おば成就せり。」と和讃されます。一切の苦悩の有情を摂取し現実只今に完全燃焼せしめんと働き続ける体を名号として顕開なさったのが親鸞聖人であります。我一人の上に如来の現行を感受する時、一切衆生を念ずる大悲心が念仏の上に現行し、一人の為が一切人の為となり一切人の為の他に一人の為と言う事は成り立たないところに、仏教の信念があります。一切の為が我が為であり一切を外にして我が為は成り立ちません。それを「自利利他円満」と言っていますが佛の事を表わします。「南無、帰依佛」法華経には「一声南無佛、悉皆成仏」とあります。一声、「南無佛」と称えれば皆佛と成ると言うのですが。我が名を称えれば間違いなく佛と成れる。成らないとなれば我は佛で無い。宣言なさったのが阿弥陀如来でありますから、一声南無佛は、一声、南無阿弥陀仏の外にありません。その南無阿弥陀仏は大慈悲心の名でありますから、名の外に心無く、心の外に身はありません。身心一体の佛を南無阿弥陀仏と言い、名の外に佛は無い。それは阿弥陀佛は一切世間に満ち満ちていらっしゃいますから名ならざる所無し、それを天親菩薩が帰命尽十方無碍光如来とお示しになって。一切世間に満ち満ちて光となり煩悩の闇を照らし、煩悩のままに煩悩を煩悩と明らかに認知し自ずから大悲の一心を不思議にも信受して如来と心等しと親鸞聖人がお示しになる、金剛心の行人とさせて頂くのであります。
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