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熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第367号
2006年7月1日発行

為度群生彰一心
たすけんとおぼしめしたちける本願


 

 七月はお盆、亡き人を思い、お墓に御参りしお寺の法座に身を置き、御内佛の前に身を安めて人間としての身と心を充分に確かめさせて頂く大事な時間、空間、人間(ジンカン)ですね。
 お釈迦様は三千年も昔、時間空間人間の深い義(イワレ)をはっきりとお示し下さいました。
 時間は、今是時。(イマコレトキ)今は今、一瞬の時。一息にして過ぎ去る。一週間て早い、一年も早い、なんて言っている間に一生も過ぎ去ってしまいます。でも今は一生も長いですね。長生きを願っていた人々が長生きを苦にしてイノチの謂れを見失ってしまったのではないでしょうか。学校教育で、イノチの大切さをどう教えたら良いのか、戸惑っている現状は、イノチそのものの意味が不明になっている事実を表わしています。人のイノチは単純なものではありません。それは無量無辺と言っても良いでしょう、それは現在を永遠と言う言葉で表わしているように永く遠く深いものなんです。永く遠く深いという事は、この身一人のイノチの中に過去一切のイノチの凝集だからです。親鸞聖人は、此処にいる一切の人々は皆、世世生生(セセショウジョウ)の父母兄弟なり。と歎異抄の中に述べていらっしゃいます。自己も他己も私以外にはありません。よくよく見つめてみれば、八万四千の煩悩は同じように八万四千共に持ち合わせておりますね。唯縁の違いによって現実に表れる姿が違っているだけなんだと知る事ができれば、咎めるどころか同じ世界に迷っているんだなと思えば、悲しみとなり、嘆きとなり、良かれと願わずにはおれなくなります。と言っても現実に出来る事もあり、出来ない事もあります。それは既に見極められて一切の善根成就の功徳の行そのものとなって下さったのが南無阿弥陀仏の如来様なんですね。如来様は真実成就の世界である浄土を一切世界に成就して下さってあります。それを親鸞聖人は自然の浄土と教えられます。自然と言うのは、人間の計らいの及ばない事を表わします。自然は自然であって人間の計らいを超えています。でもその中で人間は知恵の限りを尽くして良き方向に向かって事を進めて行きますが、良き方向が一部の人の方向だけで一切の人々の方向になって行かないんですね。一切の人々の方向って一人の人間では開解出来ません、でも此処に一切の人々の方向を見定めて下さった方が南無阿弥陀仏の如来様なんです。親鸞聖人の御歌に、
  如来の作願をたづぬれば
   苦悩の有情をすてずして
    回向を首としたまひて
     大悲心をば成就せり
 これは天親菩薩の浄土論を曇鸞大師が詳しく解き述べて下さった論註のお言葉を御歌いになったものですが、如来様が本願をお立てになったお心を戴いて見れば、苦悩し続ける人々を見放す事が出来なくて、その人の身となって苦悩から脱却する身心の行そのものとなって下さったのが、お念仏のお声なんです。佛様になられる位を菩薩と言いますが、菩薩の願いの第一が「衆生無辺誓願度」とあります。一人も残らず総ての人を救いたい。これがまず最初の第一の願いであります。その願い適って佛になられた方を阿弥陀佛と言い、阿弥陀仏は苦しみ悩む私の処に来て下さった声が南無と言うお言葉で南無阿弥陀仏は、私あなたのイノチの根源に来て一緒に生きて居るんですよと言うお言葉をいつもいつも掛けて下さっているんです。これを如来の一心と言います。鈴木大拙と言う禅仏道を世界に広めて下さった先生が「煩悩無数誓願断」こそ仏道の第一歩であると思っていたがなーに「衆生無辺誓願度」こそ第一の道であったと西田幾多郎氏への手紙に記されていたと報じられていましたが、阿弥陀佛の第一の願いが衆生の救いのイノチそのものとなりたいと言う事であり、それが成就した証こそお念仏そのものでありました。