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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第365号
2006年5月1日発行

為度群生彰一心
無碍光佛のみことのなかで

 

 無碍光佛のみことには
  未来の有情利せんとて
   大勢至菩薩に
    智慧の念仏さずけしむ

 正像末浄土和讃三十一首目のうたですが、親鸞聖人が真の仏道に帰入された門を開いて下さった御師、法然上人のみ教えが、久遠の古から連綿と流れ働き続けて来た本師法王と讃えられる南無阿弥陀仏と言うお念仏の教えこそ、釈迦牟尼仏陀の仏陀たる所以が明らかになった鍵となるものであります。
 仏陀は智慧者である事を表わします。一切智。一切存在の、去、来、現。過去も未来も持っている現在。因果の中の因果。過去も未来も同時に決定する現在。それを親鸞聖人は現生正定聚。現在只今の一念。一念は只今の心、一心。一心は心が二つに分かれない。心が一つ。それを信と言います。疑いが無いから、身心が溶け込んで行きます。そこは法界、仏法の世界。仏法の世界は仏様の世界。仏様は大いなる御慈悲の世界。慈の心は、願の世界。願いは唯一つ、身心共に喜んで生きよ。身は病にあっても、心まで病む事は無い。歳老いて、住む家も無く、橋の下で犬と共に生きる人にも一冊の歎異抄があった。小さな小さな一冊の本。そこには広大無辺の清浄世界が広がっていた。汝一心正念にして直ちに来たれ。我良く汝を護らん。これが無碍光如来の御言葉であった。仏教は涅槃の世界を開示する。涅槃を仏性と親鸞聖人はお示しになる。仏性は大悲心。大悲は誓願を起こす。弥陀の五劫思惟は一切衆生の身心の実情体験の成果であって、八萬四千の煩悩の因と果の体験が永劫の修行であった。一切衆生の因果の体験の中で、現実に解明し得た信と行。それは一人の身と心と一つになって、凡夫に知らせる佛の心、それは至心。一心になって衆生と向き合う、向き合うと言っても、相対する事ではなくて、むしろ後ろから、後ろからと言っても、外からではなくて内から、一人一人の自身の内奥から清浄なる心が吹き上げて来る。其処に打ち破られた自力我執の邪心を知る。清浄なる如来他力の疑い無き慈悲心に促され、尊い慈悲心に遇った慶びと、慈悲心の働き場所であった愚痴極まり無き愚身の身の自ずからなる懺悔に、光と闇を同時に認識し得た喜びは、現に只今まで働き続けて来て下さった如来本願の事実に、確かな本願力回向の事実の認識を得る所に親鸞聖人は本願の成就をお示しになったのであります。今現に本願が成就したと言う事は、如来の至心、一心が成就した事であり、如来と共にあると言う事実によって、真実まことなる身心に支えられてある身の事実全体が、如来信楽(ニョライシンギョウ)「如来の願いと実践」信と行に支えられた現実は、仏様の働きを身に感じ、心には佛の声を聞き「ハイハイ」と頷く心の声が私を呼ぶ佛の声、その声は佛の心に満ち溢れたお慈悲の声、南無阿弥陀仏であり、無碍光佛のみこと、みことは、御事(ミコト)、御言(ミコト)、命(ミコト)、仰せ、御導き、生活の事実に於ける慧眼の世界、光は智慧の形と示されます。形は事物の世界、日常の生活全体が如来と離れる事の無い生活を表わして「お内佛」(オナイブツ)があります。普通に「仏壇」と言っておりますが、「お内佛」身の内外を超えて、自然(ジネン)の世界、交換不可能な現実の実相そこに大悲の行が行われています。憂、悲、悩、苦は、人間の分別から生まれます。それを如来は歓喜の智慧に変換して下さいます。それを「転悪成徳」(テンマクジョウトク)の利益が実現して、お念仏の利益として、思いがけなく得られる利益を「不可称、不可説、不可思議の功徳は行者の身に満てり」と、親鸞様は仰せになりましたが、それはお釈迦様のお言葉でもあり、一切諸仏のお言葉でもあり、無碍光佛のお言葉でありました。