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熊本県長洲町安正寺

エコウ4月号第364号
2006年4月1日発行

為度群生彰一心
帰命尽十方無碍光如来

 

 四月はお釈迦様と親鸞聖人がお生まれになった月、釈尊降誕、宗祖御誕生。お寺や街や村でお祝いの行事が催されますが、そのお心を味わって参りましょう。釈尊の御誕生によって仏法が開かれました。仏法と言うのは、佛によって見出された法則。人を佛にする法則。佛と法は離す事は出来ない一つのものです。佛は法に生き、法は佛となっています。法はまた総てのイノチとなっていますから、佛はまた総てを離れる事はありません。ところが人々は見えない物が離れる事が無いと聞けば、なんとなく暗い不安な気持ちに心が誘い込まれてしまいます。それを仏教で「煩悩」(ボンノウ)と言っています。「煩悩」は無明から発生すると釈尊は説かれます。無明は字の如く明かりが無いのですね。明かりが無ければ何も見えません。見えないとなれば想像する心が働き出します。想像するには自分の知識の範囲内に限られます。人間の知識は広範になれば浅く、深く尋ねれば狭く、深く全体に行き渡る事は無理なようですね。如何にして深く広く行き渡る事が出来るでしょうか。それを仏教では、「一切智」と言っています。総ての根源を押さえ、総ての事実を確認した所に佛の智慧があります。根源と事実。それは因果の発見であります。因と果。因が無ければ果は有りません。果は因に依るものです。因が自であれば果も自。因果が自であれば自分自身の事実は自分に全責任があります。
 イラク戦争の被災から国の責任が問われた時、「自己責任」と言う言葉が出て来ましたが、自己責任と言う言葉は、自己の責任を表わす言葉であって、他人に向けられる言葉ではありません。釈尊がお生まれになった時、七歩あるいて「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと言われたと伝えていますが、天にも地にも私は唯一人であって、その一人に誰も出来ない尊い行いの可能性が回向されて居る事を表わしています。一人の身。体。絶対の身であって代わる者はありませんし、唯一度の生存で、期限が定められています。一生に一度必ず確認しなければならない事があります。それは自己自身の生存意義です。皆その事に気がつかず何か不安で落ち着かず迷乱して人間が見えなくなって、地獄、餓鬼、畜生と譬えられる、暗闇のなかの人、心は蛇蝎(ダカツ)の如しと言う親鸞聖人の言葉がありますが、身の振る舞い、言葉の使いよう、心の働きようがまともで無い有様ですね。法の中の自身に目覚めよ。自身こそ法に促されている身である事に目覚めよ。そしてそこに、万人の根源の平等なる事を「法」(ダンマ)と示し、そのダンマが一人一人の生命の根っこを形成していると教え外形はそれぞれ違っても根源は同じである事を十方衆生と言う言葉で示されます。その十方衆生を抱摂して目覚めよと働いている響きが南無阿弥陀仏であり、総ての人が和み睦み「歓喜」(カンギ)の生活者となる事を願い続ける心を本願と言い、その働きを本願力と言います。本願力に出合う事によって人は初めて人になります。人は物事を知る所にあります。事実の根拠、明かりと闇。人間の世界では、明かりと闇の区別がつかなくなっています。それは自分の明かりで計ってゆきますから明かりが闇であったり、闇が明かりであったりします。これを顛倒(テンドウ)の妄見(モウケン)と教え、真理に反した邪見(ジャケン)の心と示されます。邪見は我見、ひとりよがりの小さな世界に自分を自分で閉じ込めて、自ら闇の中に落ち込んで苦悩し続け、終に身心を無駄に労し続けて終わる事が有りません。これを流転輪廻(ルテンリンネ)と言い、その終結を願って仏法があります。「色は匂えど散りぬるを、わが世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越へて、浅き夢見じ、酔いもせず」有為法、無為法、人間の計らいと佛様の願い。具に聴聞させていただくところに人間の最終的使命があり、佛様の永遠の願いがあります。帰命尽十方無碍光如来。