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熊本県長洲町安正寺
エコウ3月号第363号
2006年3月1日発行
為度群生彰一心
良寛和尚と親鸞聖人
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三世諸佛無仏性 一切衆生有仏性 「良寛」
右記の書は、良寛の筆跡、言葉も文字もすばらしいですね。実はこの書は、中外日報二月七日紙上に掲載されたものですが、京都精華大学名誉教授、笠原芳光氏の解説で、題は「自由」超えた「自在」の人、「逆説の良寛」でしたがその言葉によって連想されるのが親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を挙げて、それよりもはなはだしい言辞であり、これが逆説でなくてなんであろう。と述べられてありましたが、逆説でもなんでもなくて、親鸞聖人のお心と変わる処はありません。良寛和尚は禅の道を歩まれたとは言え、仏道全体に通じ、特に阿弥陀佛の世界を充分体得されていた和尚でした。数々の句の中に、
他力とは野中に立てし竹なれやよりさわらぬを他力とぞいふ
良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答えよ
おろかなる身こそなかなかうれしけれ弥陀の誓ひにあふと思えば
極楽にわが父母はおはすらむけふ膝もとへ行くと思へば
不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思ひ出にせむ
草の庵に寝ても醒めても申すこと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
と言う句は、北陸道の浄土真宗の庶民の中に滞在した時に心を合わせて歌った句、と、笠原教授は述べていますが、人に喜んでもらをうと心にもない事を歌う良寛さんではありますまい。法の中に入り満ちて、法と一体になって生きて行かれた良寛さんであればこそ、逆説ではなくそのまま歌われたのが「三世諸佛無仏性」であり、「一切衆生有仏性」なんです。釈尊最後の説法である「涅槃経」に、「一切衆生悉有仏性」と言うお言葉があります。道元禅師はこれを「一切衆生に悉く有るは仏性」と読んでおられます。釈尊の教えは「無我」蓮如上人は「仏法は無我にて候」と述べられます。釈尊滅後七百年、竜樹大師がお出ましになり、仏教の真髄を「縁起所生・無自性・空」と説き、煩悩妄念にわざわい続けられる凡夫が、いかにして真実の大道に帰する事が出来るか、それは称名念仏の誓願に立たれた阿弥陀佛の仏力に依る他には無く、この道こそ、即の時、不退転、不動、無碍に立たしめる仏力であると述べられます。親鸞聖人は竜樹大師を讃え、亦、釈尊の予言に則り、正信偈に「悉能摧破有無見」と述べ、有るとか無いとかは人間の分別、佛の智慧に照らせば、浮き草の如く漂い定かなものは何一つも無く、人間の計らいである分別を超えて実在に眼を開かせんと一切衆生の中に身を没して働き続けるお慈悲こそ仏性であって、仏性は一切衆生の中にこそあって佛には無い。佛は一切衆生の中に没して大悲の行そのものでありますから、仏性が有るとか無いとか分別を超えた仏性そのものでありますから、自らに仏性が有るのでは無くて、仏性其の物を一切衆生の中に発起せしめる働きそのものこそ南無阿弥陀仏のお名号であります。その心を「一心」と天親菩薩はお示しになり、その一心は仏力、他力、本願力と曇鸞大師はお延べになり、親鸞聖人は「至心、信楽、欲生」の三信を一心と頂かれて、釈尊の一心も、弥陀の一心の他に無く、諸仏もこの一心に帰し、現にお念仏として行じて下さってあります。「本願」は「仏性」仏性は信心、信心は仏性、仏性は本願、本願は名号、仏性は名号となって一切衆生の中に行じて下さってありますから、一切衆生にこそ仏性は有って働いて下さってあります。なればこそ「善人は往生するは当然」であり、「悪人が往生するのは尚更当然」であります。何故なら、大慈悲の仏性は誰よりも強く窮地に立つ人に働いて下さるからなのです。でも善人と自認する人にこそ、如来の仏性は大きく働いて、仏性に目覚めて回心し一心金剛の信心が生まれます。
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