|


熊本県長洲町安正寺
エコウ2月号第362号
2006年2月1日発行
為度群生彰一心
釈迦・弥陀・親鸞の一心
|
|
|
弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
この御和讃は、御本山報恩講法要の御文法話で、いつも讃題として頂いて来た御言葉でありますが、聖人八十五歳の二月九日の朝、夢の中に頂かれたお歌で、喜びのあまり書き記した。と、草稿本に書き残し、また清書して、正象末和讃の最初に掲げられました。
八十三歳から八十八歳まで聖人最後の締めくくりとして、精力的に浄土の真宗の教えを書き残して下さいました。二十九歳で、法然上人を訪ね、浄土の要門である、本願の念仏に眼を開かれて、一切を棄てて、弥陀の本願の信と行の体現である、念仏の一行に全身心をお預けになりました。
それを聖人は御本典「教行信証」の後序に「雑行を棄てて、本願に帰す。」と宣言された様に、本願念仏の中に、真の仏道を見出されました。仏道は、人間が人間として正しく生きる道を表しますが、それはそのまま、佛様の道であります。人間が人間として正しく生きる道は、お釈迦様の八十年の生涯がはっきりと示して下さってあります。
人間苦悩の原点は、人間の思い其の物をそのまま肯定する所にあります。業道自然「自己肯定の道」。思いのままを肯定すれば、自分の世界の穴から一歩も出る事は出来ません。小さな自分の穴の中から見た様には、世界は成り立っては居ないのです。「諸法無我」一切はわが思いに先立って存在しています。「無為自然」(ムイジネン)一切存在を引き受けて生かし続ける永遠の行(ハタラキ)それは、生きとし生きる物、総てイノチを共にして、生かされている。その基に、全宇宙の生命体、無量なる生命、終わり無き生命、総てに働く生命体、それを無量壽と言い、梵音(ボンノン)で阿弥陀(アミダ)と言い、その阿弥陀は、十方世界に入り満ちて、喜びのイノチを基に智慧の光となってあらゆる生きるものとなって、今現に生きて働いて下さってあります。その事を、釈尊は、大無量壽経に詳しくお説きになりました。これは、未来の一切の衆生が共に喜んで生き会えるイノチ世界であるから忘れず心に保ってほしいと、一貫して、大経。観経。阿弥陀経の三部経に、是で大事な行を説き終える事が出来た。と喜んで目の前のお弟子達と、肉眼では見えないが、イノチの眼ではっきりと見える真実の世界に集まる大衆(ダイシュウ)と共に「信心歓喜」(シンジンカンギ)信心は、真心、二心無き一心、永遠に相続する一貫した心、それは一切が隔てなく一体となって信じ会える世界、それを弥陀の本願と表されたので、本願一筋に生きて行かれた親鸞聖人は、人生の、いろいろな事件を通して、人間の分別が如何に不充分で不透明で混乱を引き起こし、有るべきでない状態に有らしめている、惑業の悲しみの中に、愈々切なる大慈悲の本願こそ、唯一無二なる大道である事を賛嘆憶念されたのでありました。
|
|