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熊本県長洲町安正寺
エコウ1月号第361号
2006年1月1日発行
為度群生彰一心
群生を度せんが為に一心を彰す
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年頭の御挨拶は、何方も、おめでとうございます。で始まりますが、蓮如上人は、「幾つになったか、お念仏しなさいよ」と、申された事が言い伝えられています。
おめでとうと言う言葉は、進むべき道が得られた事を表しますが、それは当面の事に対する心を表しますが、最終的に、何処へ行こうとしているのかが認識されていない所に、不安定な言葉となって、責任のない浮いた言葉となってしまいます。
蓮如上人は、本願寺第八代の責任者となってイノチを掛けて「浄土の真宗」と言うみ教えを今、生きて居る人に御伝えしなければ、と言う使命感に立って行かれました。戦乱と混乱の世、乱世といわれる時代にあって、人のあるべき道を身をもって求め顕かにし、道を得て歩まれた相こそ、宗祖親鸞聖人の望まれる相ではなかったかと思われます。
親鸞聖人もまた、源、平、騒乱の世にあって、身は、流罪と言う汚名を着せられ、遠い辺鄙な地に身を寄せながら、住む人人との心の響きあいの中に真実の道を確認して行かれた歩みが、教、行、信、証「キョウギョウシンショウ」となり、「正信偈」となって今に私達に伝えられています。真の仏教を尋ねて、三千年を遡り、釈尊を越えて、阿弥陀佛に辿り着かれ、阿弥陀佛の根源の法蔵菩薩に出会われました。
法蔵菩薩は現在の果から、遥かなる因を探り当て、その因から果に至る現在までの道のイノチの働きの中核となるべき相を見出されました。それは勿論、世自在王如来に会った功徳と聞法の働きによってではありますが、実はそこに大きく働いている、イノチの意志を確認されたのでありました。それは皆、相より、相助け、共に生きあいたい、と言う遥かなる願いがあったと言う事でありました。それが現実に得られず、相反して、殺し合い、弾き合い、憎悪の念がいや増しに増大して行くのは何故か、そこに法蔵菩薩の思惟が始まりました。その長さ五劫とも言われてありますが、思惟の無限性と究極を表しています。つまり意志と行動との一致点の解明にありました。
一切の苦悩の因、一切の行動の因、心の方向が定まっていないと言う事であります。
一年の計は元旦にあり、と言われて来ましたが、一年一年の計を立てても、最終的人生の計、つまり生まれた意義がハッキリしなければ、それこそ軟弱な地盤の上に高層建築を立てる様な事になって、終に人生が虚しく過ぎて行って、無駄な徒労に終わってしまう事になります。
そこに仏教があります。今日只今の世界の実相を明らかにし、身一人に「私」の為に掛けられた大いなる願い、真実に生きよ、真実とは何か、此処に真実あり、と呼びかける声、それが南無阿弥陀仏となられた、法蔵菩薩であり、真実の心と、行動が、唯一点に凝集した物こそ、本願成就の、一心と言われる、心行一致のイノチ其の物であります。
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