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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第360号
2005年12月1日発行

「名告の名号」
如来の行信が貴方の行信

 

 釈迦牟尼仏陀の教えは、人の世を悔いる事無く全うする道をお示しになりました。生まれたという事は何か、生きると言う事はどうゆう事なのか。人は何によって生きているか、それこそ人間の問題は無量無辺限りなく続いて結論を見出す事は出来ません。でもそこに、限りなき流転を見届けた仏智によって、限りなき流転の闇を形成している、凡夫の知恵、それは我見の手前を持ち続けていて、仏陀の知恵を他所事の様に簡単に打ち棄てて、見向かう事ともしない所に人身のはかなさ、悲しさがあります。三千年の昔、釈尊は世に光を齎されました。明るい世界を示し、其処に生きて、その道を説き、共に生きて行く出家の集団を育て、次第にその範囲を広め、在家、出家を問わず、道を求め道を伝えて、その教えは人々に限りなき世界への道を開き、現実の世界を基に、無限の真実への途を開いて行きました。
 人間の目覚め、世界に光を齎されて不動の人間道が開かれてインド中国日本の三国を通ってその道は日本の聖徳太子によって大和の国民の手によって大成されたのでありました。
 浄土真宗。此の名は和国の、愚禿釈親鸞。と名のられた宗祖によって公開された真実教であります。
 「顕浄土真実教行証文類」と言う大部の著作に纏められたものは、仏教の根源と、仏教の精神とその実相が隈なく纏められ、ただその大道は念仏の一行に帰しその精神の基盤となるものを「信」の一字に表されました。
 「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候」と、蓮如上人が御文に記されたように、信の一字こそ世界の基本となっている事実を失っている所にこそ、現代の混乱の起源があります。不信の時代、排他の時代、一切を敵視する時代、それは自己自身の根源を知らずに、徒に自我流に暴走して留まる事を知らず無闇に突っ走る、虫と成り果てた姿は既に如来大悲の心中に見抜かれていたのでありました。
 親鸞聖人は、その落ち果てた人間の様相を身一身に引き受けて、弥陀五劫思惟の本願は、唯親鸞一人が為なりけり、と本願精神の内実を究明し一切の人間の閉ざされた眼(マナコ)を開く道(行)を念仏に見出し、念仏は、弥陀五劫思惟の本願の働きである事を見開き、念仏のみぞ真実(マコト)にておわしますと、念仏のイノチを開明されたのでありました。「いま いのちが あなたをいきている」と言うテーマが掲げられましたが、時を得た大いなる呼びかけであるとおもいます。
 世にイノチ無きものは一つとしてありません。その一切のイノチをイノチとして生きて下さっているのが「南無阿弥陀仏」であります。「南無阿弥陀仏」は一切のイノチを全うさせたいと願い、その願いが真実を失しない物として完結し、イノチある限り絶える事の無いように行じ尽くされる働き其の物がお念仏でありますから、念仏者は、いつも弥陀の精神を頂きながら、御縁の中に、大いなる大信の中に広大無辺の世界を戴き、全宇宙の生命と身心を一つにして生きる力強き生命体としての人生を全うさせて戴く事ができるのであります。
 「名告」(ミョウゴウ)の「名号」(ミョウゴウ)と言うテーマで一年味わって参りましたが、南無阿弥陀仏の名号は南無阿弥陀仏の大精神を人々に与え、常に憶念されている事実の中に生きている事を確認すれば、決して道を踏み外す事は無い事を知らせて下さってある事実こそお念仏である事を深く知らされれば、愈々共にお念仏させて戴く事であります。
 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
 と、親鸞聖人は和讃して、イノチのイノチのすべてが、如来大悲の働きの真っ只中である事を一心込めて知らせて下さったのであります。