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熊本県長洲町安正寺
エコウ11月号第359号
2005年11月1日発行
「名告の名号」
お念仏は如来様の息と私の息の証
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名告の名号と言うテーマですが、名告も名号も共に阿弥陀佛の名を言います。唯その名は、一々の物に付けられている名とは大いに違っていますね。勿論阿弥陀佛と言う仏様の名ではありますが、その名が阿弥陀佛の全体を現し、阿弥陀佛の働きを現します。「現す」と言う字を用いましたが、表すと言うのではなくて「現れて下さってある」事なんです。親鸞聖人は名号を本尊となさいました。蓮如上人のお文に、当流は、木像よりは絵像、絵像よりは名号と言うなり。とありますように、名号こそイノチ其の物であります。仏教では身口意〈シンクイ〉の三業と言って、人間が生きる上に大事なイノチを示します。身のイノチ、言葉のイノチ、心のイノチ。身と心、と一般に言いますが、人間にとって大事な物は言葉なんですね。キリスト教聖書に、初めに言葉ありき、とありますが、人間になるのに先ず第一に必要なのが言葉であります。猫はニャーンの一声、犬はワンワンの二声、人間は多種多様な言葉を持っていますが実はその言葉によって考える事が出来るんですね。言葉無しで考える事は出来ません。柔らかい言葉、硬い言葉、怒りの言葉、悲しみの言葉、苦しみの言葉、愚痴の言葉、それぞれの言葉はそれぞれの心を表し相手に伝えます。相手はその言葉によって心が動き反応してその人の言葉が出てきます。会話によって喜怒哀楽の世界を作り、限りなく業縁は深まって行きます。そこに衆生の業縁の深さを紐解き、共に快楽安穏の道を開く聖なる清らかな業〈ハタラキ〉として願〈ネガイ〉を起こし、行〈ギョウ〉に立たれたのが法蔵菩薩であります。その願を〈ホンガン〉と言い、その行を〈念仏〉と言います。その念仏を名号と言い、願を名告と言います。だから名告の名号と言うのは、本願の名号と言う事なんですが、お念仏の声の中に阿弥陀佛の願いが込められていて、実はその願いが名として成就しているんですから、名を称える所に願いが成就して、即、快楽安穏の世界が開かれてまいります。これを即得往生と言います。親鸞聖人は真実の宗教を顕示なさいました。それを浄土真宗と示されます。法然上人は浄土宗をお開きになりましたが、唯念仏と言う教えの根源に阿弥陀佛の本願がある事をお示しになるんですが、その本願は阿弥陀佛の全身心を表しますので、お念仏は阿弥陀佛のイノチ其の物であって、念仏者は如来の精神と実践とが同行されている事を戴くのですから、常に阿弥陀佛の精神の光に照らされて、映す影を見つめて、自身の生活の実態が思われて親様の暖かい心に抱かれている在り難さに安堵し、御恩の忝さに自戒、自尊、自然界に働く如来真実の働きを実感し、先月号に掲示しました、「恭敬心もて大地を歩め」一切が如来の願いの現われであり、如来が現に歩いて居られる大地であれば、恭しく敬う心で歩ませて戴く心こそ、お念仏の世界であります。お念仏は佛の念力です。佛の念力の中の生活をお念仏が証明して下さいます。歎異抄に、「念仏者、無碍の一道」と示されます。お念仏を称える人、如来様と御一緒の日暮しですから、何も分別し心配する事はありません。自然に如来の御守りの中、お任せして生かされるままに、今日の一日を安心して歩ませて戴く所に身心柔軟の御利益があります。それを、無碍の一道と言います。何物も私自身を妨げる物はありません。もしも妨げる物があったら、それは、自我自身を守ろうとする、敵対心をもった虚妄分別の煩悩の所産であります。自己自身の迷妄と、だからこそ真実心をもって御守り下さる如来の願力は私一人の為であったと戴かずにはおれません。その事を親鸞聖人は、「弥陀五劫思惟の本願は、ひとえに親鸞一人が為ありけり」と、唯円坊が聖人のお言葉として、大事な視点である事を書き残して下さいました。如来本願のイノチの総てを御名号に成就して、私と一緒に歩いて下さっている声、如来の御息、御息の中の私の呼吸、ただこの如来の行に御仕えしなさいと親鸞様は申されます。
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