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熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第358号
2005年10月1日発行

「名告の名号」
如来摂取に功徳あり

 

 暑さを越えて、空は澄み、果物は盛り沢山。天高く馬肥ゆる季節と言われますが、天地自然と一つになって生きる事を忘れて、人間の営みは、愈々劇苦を重ね、心休まる時はありません。茲に如来の本願の出発があります。煩悩に眼が覆われて不自然な不安定な解釈を現実と勘違いして、自分で自分を閉じ込め自ら苦しんで行くのですね。如来は一切の衆生の心の根底を見抜き尽くして、本願を立て、国を作り、その国のメインルートを完成して下さいました。第一国道の声がお念仏です。お念仏は如来様のイノチであり、如来様のお体であり如来様のお働きのお声であります。お声を名告と言います。汝と呼んで下さるお声です。如来様が直接私を呼んで下さってあるのです。その声はまたお友達や見も知らぬ人達の口からも聞こえて来ます。みんなその声は聞く人の為のお声です。そしてその声が聞こえた其処に如来様がいらっしゃいます。ひと時も離れず護って下さってあるのです。生命の誕生以来。休む事なく護り念じて下さって今此処に煩悩の眼を開き、佛様の世界を身に感じ、口に佛の名を称え、自らの声で如来様の声を聞く、お念仏を称える声の中に、如来様が私となって下さってある事を現実に知らされるのであります。知らされた所に如来様のお心が称える人の心に伝わってまいりますね。如来様のお働き、如来様のお声、如来様のお心が、私の身に、口に、心に、紛れも無く常に働いて下さってある事実に遇う時、御浄土の第一国道を歩ませて戴いているのですから、町並みは全く整備尽くされて、五劫に思案され永劫の期間を経過して成就された環境は、見る物聞くもの触れるもの総て、真実心をもって形成されていますから、心をお念仏に掛けて日暮しをさせて戴けば、十方微塵世界に満ち満ちていらっしゃる阿弥陀佛の御加護が、不思議に心に、しみじみと染み渡って身も心も柔らかく、阿弥陀佛の約束通り、心豊かに喜んで生かされて行く事は間違いありませんね。阿弥陀佛の四十八の本願の中の三十三番目に誓われています。「触光柔軟の願」と言われるもので、親鸞聖人は、お念仏の功徳の代表に挙げておられます。何かにつけて「カチン」と来る精神状態の今の世に、冷静に物事を見つめる余裕を、必ず齎して下さいます。仏教は智慧の宗教です。決して物事を一箇所から見ると言う、偏った見方を離れて、一切を越えて清浄なる眼、大慈悲の眼、観音様のお姿が眼から耳から五感を通して身全体に働いて下さいます。親鸞聖人は、お念仏の功徳によって、いつも観音様のお働きと、勢至菩薩様のお働きの中に生かされている事を事実と戴いて九十年の生涯を生き、その歓びを隈なく述べ尽くして行かれました。南無阿弥陀仏を称えれば、この世の利益際も無し、流転輪廻の罪消えて、定業中夭(ジョウゴウチュウヨウ)のぞこりぬ。南無阿弥陀仏とお念仏して阿弥陀佛の御名を称えれば、南無阿弥陀仏の行じ尽くされた、真実の一心による功徳の全体が称えているその人に完全に与えられます。それを弥陀の回向とお示しになります。回向と言うのは、阿弥陀様が一人一人の中に入って行じて下さってある事実を言います。お念仏の日暮しは、如来様と御一緒の生活ですから、如来様の真実心に支えられて、たとえフラフラな生き方も壊れる事の無い、金剛堅固の信心に支えられて、一息一息が完全な行に護られていますから、お蔭さまでと、戴いて行く日暮しは肩の荷が降りた様な御安心と言われる心の安らぎが身を包んでいる、『摂取不捨』(セッシュフシャ)と言う御利益が戴かれます。阿弥陀と言う名はしっかり護って居ますよ、と言う意味を持った名でありますから、お念仏している事がそのまま、阿弥陀様に抱かれている事を表しています。一切の悪業から開放されて、諸天善神悉く夜昼常に休む事無く、護り続けて下さってあります。シッカリとお礼を申しましょう。お礼を申せば、尚更に御利益は、増大してまいります。不可称、不可説、不可思議の功徳は念仏者の身に満てり。と親鸞様は仰せられました。