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熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第355号
2005年7月1日発行

「名告の名号」
イノチの声のはたらき

 

 一年の後半を迎える七月、もう既にお田植えも終わり、水田に青々と風に靡く水稲の若苗の相に、イノチの根源の働きに頭を垂れ、秋の実りの円ならん事を願わずにおれませんね。中国では、豪雨の土砂崩れで小学校が崩壊、多数の死者を出したとテレビが報じていましたが、宇宙の中の地球、一切の動きの中で的確な予想は不可能ですね。でも、どちらにせよ、生まれた者は必ず死を迎え、免れる事はできません。時は七月、お盆の月、お釈迦様の国も日本も雨季ですね。イノチを大事に、と言う所に仏陀の説法があります。特にお弟子の目連尊者は、亡くなった母親の事を思い出します。この身を生み育てて呉れた母親、輪廻転生と言う常識の中で母親は何処へ。神通力の大家である目連尊者は十方世界を隈なく探して、見当てた姿は痩せ細った悲しそうな、訴える姿であった。神通力で色々と手立てを施しても悲痛な母親の姿を救う事は出来ませんでした。やむなく目連尊者は仏陀世尊にお尋ねをします。世尊の答えは、唯一人の母親を救うという事は、一切の衆生を救うと言う手立てによる他に無い。十方衆生の共なる救いこそ仏教徒の心域であるはず。先ず他を救う前に、ともに救われる自己の救いこそ得なければならないのではないか。その言葉に目連さんは眼を開き、一心に聞法に精進したあげく、真実法の中に共々に生かされている事実に触れた時、母親の笑顔の姿に出会う事が出来た。天に踊り地に踊るほどの慶びを抱き、良かった良かったと手に手を取って歓喜している姿を見た人達がまた、良かった良かったと聞法の真実性を讃えあったのが、盆踊りの始まりですね。法の真実に目覚める事が人生完結の大道であります。それは一人の救いが一切人の救いを証明し具現する事実であるからです。親鸞聖人はその事を、一切衆生は世世生生の父母兄弟なりと歎異抄に述べられます。それぞれ名は大事な自己表現です。たとい知らぬ間に親がなずけた名であっても、実は自らが名乗った物なんですね。一つ一つの名には、無限の深い「義」(イワレ)があります。そこに聞名(モンミョウ)と言う大事な大事な仕事が残っています。名はイノチです。イノチの名です。名のほかに自身はありません。生きて居る時の名を俗名(ゾクミョウ)と言います。永遠不滅の法の世界に身を置いてからの名を、法名(ホウミョウ)と言います。亡くなられた方の法名は佛になられた名であります。生きて居る人の名でも、名はその人を表し人と共に名が生きています。人を尊敬する事は名を敬う事に通じます。名をウヤムヤにする事は、その人を抹殺する事に通じます。ある会合で質問を受けました。 この頃人を簡単に殺す事が報道されますが自殺と言う事についても仏教ではどう見ていますか。仏教で第一の悪は「殺生」をあげます。
 生命は誰の物。と言う命題がありますが、生命は、生命其の物の物です。誰にも私有化する事は許されません。自殺は自意識の傲慢さから出て来ます。イノチに願われている事の無知さから発生する最も深い罪障と言えます。たとえそれが如何なる理由があるにしても、イノチ其の物は、他の為と言うより、貴方自身の完結の為に全生命を燃焼させて欲しいと願っています。願いのイノチに生かされている身、その身の奥からひたすら呼びかけている声、それが、南無阿弥陀仏の名告りですね。清浄、平等、尊貴の精神が貴方のイノチとなって下さってある事実が名号南無阿弥陀仏です。何時の時代、如何なる場所、如何なる人も南無阿弥陀仏の御名を念ずれば、その時、阿弥陀佛の回向の真っ只中に生かされている事が実証されて、無明煩悩の闇の中に、安心してお任せ出来る平安なる無碍道が展開されて行きます。一切物の中に在って清浄となり、尊貴となり、絶対的なるイノチ其の物の尊厳性を保ち与えて下さってある事実こそ南無阿弥陀仏の名告りであり、最勝無上の功徳の宝庫である名号。親鸞聖人は、名号は功徳の大宝海なりと讃嘆されてあります。