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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第354号
2005年6月1日発行

「名告の名号」
名号は真実功徳大宝海

 

  六月衣替えの季節、麦から米への農作業の時でもあります。時々刻々時は移り、諸行無常の中に生かされる身、時にあって時に生きる身のあるべき相は、法然上人の教えによれば、念仏の申されるようにあるべし。と言う事ですが、念仏は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏は御名号。お名号は阿弥陀佛の名であると同時に、阿弥陀佛のお働きそのものですね。阿弥陀様のお働きは、釈尊がお示しになる、人間の尊厳と独立を各人に成就させんとする所にあります。人間の尊厳は、宇宙に満ちている真実の行。行は動き。諸行のなかに働き続ける願い。これを本願と言いますが、すべての中に潜在する根本本体、「生かさん」「生きよ」「生の方向の確立への願い」が成就して、名告りとなり名がその願を行じているんですね。だから南無阿弥陀仏の念仏の声そのものが願を聞く人の心に与えて下さるのです。「聞名」(モンミョウ)名の心が開かれて来ます。それを「信心歓喜」(シンジンカンギ)真実まことの心が、自己関心の小さな心を照らし開いて、小さな心が広く大きな世界に導かれて、眼(マナコ)を開いて、軽々(かるがる)と人生を歩まして頂く事が出来るのですね。それを名号と言い、親鸞聖人は尊号と頂かれました。いわゆる号と言うのは、不可思議なる徳行を表しますね。不可思議なる功徳を持っているのです。その姿を念仏者は無碍の一道なり、と歎異抄第七章に親鸞聖人のお言葉として唯円坊が書き残していますね。道は別に何処かにあると言うのでは無くて、生きて歩いている人の身にあります。それを念仏者と言いその人が道を行じているのですが、その人は自分の思いつきで歩いているのでは無くて、阿弥陀佛と釈迦牟尼佛の二尊の行の中に抱かれての歩みですから、それこそ疑いも無く教えの光に照らされて明るい生活、揺るぎの無い確かな道を歩きますから、お蔭さまと、眼に見えない如来の働きを実感しての生活は自ずから柔和なる精神に依って体調も調えられて行きます。と同時に浄土としての環境が確かなものとして身心共に触れて行く事になってゆきます。その事を善導大師の教えを受けたお弟子の智栄と言う方が、お念仏する事は、如来を讃嘆する事になり、自己の愚かさを懺悔する事になり、発願回向する事になる。と述べられて、念仏の日暮しが、最高、最上の道である事を賞賛していらっしゃいますが、政治経済社会の現況は自己の思いの中にこそ正義を認め、他の認識を過ちと限定する声高な、国家代表の言辞は、そのまま社会の混乱を愈々増長する働きとなって、平和実現は遠く彼方に離れて行く事になって行きます。家庭も社会も国家も、宇宙一切の心の根源の願い。それは、一切のイノチの根源からの意志は、一切のイノチの意志を摂取し統一した、阿弥陀の本願の結晶体の一句、南無阿弥陀仏の名号に込められ、その働きは念仏する人に全力投球されて、暗さは微塵もありません。それは一切の過去と一切の未来を今日只今の一瞬に頂き、南無阿弥陀仏の本願の信心とその行であるお念仏が私の生活全般を摂取して、無碍の大道に乗せて下さってある事を確かに知らして頂く事ができますね。
 親鸞聖人が、如来の大願の船に乗ずるは、「智」と言う事であると述べられますが、凡愚の身に広大無碍の一心が回向されて、天地の運行、星回り、日の良し悪し、天の神、地の神、悪鬼神、一切の障りを払いのけ、かえって一切の神々が念仏者を守護して下さって、守護するばかりか、真実の精神を理解し、その精神の実践に立つ、お念仏の如来の行に参加している人の身の内外を凝視し、恭敬し礼拝し神の名において責任をもって守護して下さってありますから、無碍の一道を歩まして頂くのであると述べられますが、このお念仏の行以上の行は何処にもありません。それは如来様御自身の行でありますから、親鸞聖人は、お念仏を、「真実功徳大宝海」とお示しになり、この功徳は広く一切の人々に及ぼして海水の如くなりと示されます