|


熊本県長洲町安正寺
エコウ5月号第353号
2005年5月1日発行
「名告の名号」
一切生命根源からの声、名告
|
|
|
五月、八十八夜のお茶摘みが始まり、端午の節句、子供の日、憲法記念日と、連休が続きますが、その一つ一つには深い願いが込められていますね。私達が生きて居ると言う事は、そこに命があると言う事ですね。命は命から生まれます。当たり前の事を忘れているのではないでしょうか。当たり前の事を、自然と言いますが、自然と言う事は、必然と言う事を含んでいますね。必と言う所には、意志があります。自然は大自然と言われる様に、一切を統括しています。その統括する意志を本願と言い、本願の主体を法蔵と言い、本願の根源を阿弥陀と言います。阿弥陀は光を命とします。この光は一切世界を照らし尽くします。照らすと言っても、教えを言ってるんですね。その教えが光の働きをして、照らされた自己判断の意識を解明し自覚の眼を開いて呉れるのですね。そこに暗かった判断の世界に智慧の光によって明るい世界が開かれて来ます。そこに生きる世界の変化を表して、往生と言い、生まれ変わって生きる場所は変わり無き現実世界ですが、生きる主体的意識が知恵から智慧に変化して愚痴から信心に変わって現実に対する認識と意欲が変化して元の錯誤した判断に返る事の無い生き方を不退転と言い、誤りなき認識と生活を正定聚の位と言い佛と共に生きる人、それを佛弟子と言い、共に同じ心と方向を持った人を御同行、御同朋と親鸞聖人は御敬い同じ真の道を行く人として、その人の中に働いていらっしゃる如来様を拝んで行かれました。その本は無量壽である、阿弥陀様のイノチの働きである、本願真実の形相である法蔵菩薩の精神、我が行は精進にして最後まで悔いる事は無いと言う、一切に妨げられる事のない、無碍の一道を歩み続ける人として新しく誕生する人を即得往生と言い、念仏者を讃嘆して、この人を広大勝解者と言い、またプンダリーカ。「分陀利華」と言ってお釈迦様が褒め讃えていらっしゃいます。それは、阿弥陀佛の願いを頂いて讃嘆し、道しるべとして願いに生きて行かれたのがお釈迦様ですから、その願いを聞いて喜んで生きて行こうと決断する人を信心歓喜者と言い、その人は仏陀の心と一つ所に生きる人ですから、華厳経には、「如来と等し」と説かれ、仏様と一緒に生きる人として、それをこそ唯我独尊と讃え、人の中の華と讃えていらっしゃいます。歌に「人として、人として花を咲かそうよ」と歌っていますが、その花は、個人的能力を発揮する花では無くて、心の底に、真実心を開き、一切の命の中に働いている如来の願い、真実の心と行を敬い生きる道に人間の信心の華があり、人間の命があります。
「過去の歴史を反省し、誤った認識に目覚めよ」と叫ぶ、中国の人達のデモ行進による暴力行為。「その行為の責任は日本に有り」とコメントする中国外務省。インドからの仏教を中継し伝えた中国。儒教、道教と言った人道の心を大事にした中国。やはり教育の偏りを痛感せざるを得ませんね。デモの後の惨憺たる情景。この事の反省は必要無いとでも言うのでしょうか。これを親鸞聖人は「悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎(ジャカツ)のごとくなり」と、慙愧し、人間の心が、外をのみ批判し、自己の行為が全く見えていない眼識を、無明煩悩身に満ち満ちて、我をのみ善しとする無眼人に、人間の偏頗なる眼(マナコ)を転じて、我と人を平等に正しく見つめる心のマナコを開かせたいと言う所に、弥陀の本願、他力本願があります。この本願こそ、人間の基礎であり、社会の基礎であり、国家の基礎であり、宇宙全体の地盤でもあります。もともと弥陀の因位、法蔵菩薩は、一国の国王、王様でありましたから、本当の国はどうしたら出来るか、国民が平穏に生きるにはどうしたら善いか、と言う事が出発でしたから、国と国民。心と環境。が大きな問題であったのですから、その問題を本願とし、本願成就した世界こそ弥陀の浄土でありますから、この国の心と目標を忘れるな、と言う心の叫びが南無阿弥陀仏と言う名告であります。 |
|