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熊本県長洲町安正寺
エコウ4月号第352号
2005年4月1日発行
「名告の名号」
無限の内容を持った今日の一日
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親鸞聖人はお正信偈の中に、お釈迦様の御誕生について、釈迦所以興出世と書いた後で如来所以興出世と書き改めていらっしゃいます。勿論、お釈迦様の事に間違いはないのですが、お釈迦様が単なる個人的なこの世への御誕生と言う事ではなくて、永い歴史的な働きの中からの御誕生である事をお示しになったのですね。如来と言う名は、真如法性と言う真実まことの世界の命から出世である事を大無量壽経の説法によって開眼されたのでした。
釈迦牟尼仏陀の説法によって開かれた仏道が仏教として、三国を伝来し数多の仏教徒を生み出してきましたが、教養としての仏教、学問としての仏教、人間の心的内面を解明する心理学としての仏教、身心共に強固な人間を作る鍛錬道としての仏教、身体養護の薬物としての植物を探求した仏教、それこそ仏陀の説法は多岐にわたり、俗に八萬四千の法門と言はれるようにあらゆる分野にわたって法則が説かれている所に仏法の広さがあり、また永い間に掘り起こされた深さがあります。
その深い教えの根源を、命をかけて掘り当てて私達の所に届けてくださったのが、親鸞聖人であります。
「眞ブデッズム」と諸外国に紹介される浄土真宗は眞の仏教を伝えるものであって、釈迦牟尼仏陀が自ら、阿弥陀経の中で「世間難信の法」と示しながら、これこそ唯一の衆生共生独立の法である事を、諸仏称讃の法として述べておられます。それは現に真実の世界に生きる事を行じながら、一人一人がそれぞれ確かに立って行くことを只管念じ続けておられる相を、お念仏として見聞して行かれたのが親鸞聖人であります。それは、当時名もなき人々の身となって真実の仏道を身をもって開顕されて、命の証しとして書き残されたのが「顕浄土真実教行証文類」であります。「浄土」それは、真実の世界の衆生の姿が映し出されます。無有好醜=姿の良し悪しを分別しない。だからこそ、悉皆金色=総ては皆金色に輝き、伸び伸びとその人の実相を表現して心を残す事が無い。心を残さないと言う事は、其処に満足して余分の思いを持たないと言う事です。「満足して」と言えば、そこに止まる事の様に思いますが、そうではありません。一刻一刻事実は生まれ形成されて行きます。一刻一刻止まる事は無く、作り生まれて行きます。現在只今に願いの目標に向かって歩くほかにありません。人間の命、その終わりの時は、今の一息の他にありません。その一息こそ絶対の命である限り、目標に向かっている今の姿こそかけがえの無い姿其の物でありますから、その他にありようも無い相として在る事の慶びを頂く時、満足出来るのではないでしょうか。私と一緒になって行じて下さってある如来さまこそ、阿弥陀佛。南無阿弥陀仏と名のって下さる御名号、その名を聞く所に、聞名と言う、大安心の命の世界があります。
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