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熊本県長洲町安正寺

エコウ3月号第351号
2005年3月1日発行

「名告の名号」
お彼岸からのお呼び声がお念仏

 

 春三月、お彼岸の月を迎え、年度末と新年度を迎える大事なけじめの月ですね。四季に恵まれた日本は、身と心に宇宙全体の動きに対応する能力が与えられて、親鸞聖人が「和国」とも「和朝」とも呼ばれる、大乗精神に生きる人々の国として伝統されて来た同朋ですが、戦後の伝統精神の喪失のまま今日に至って六十年、世の指導者と言われる人達に和国と和朝の精神世界が全く失われた所に、今日の社会の混乱があります。
 お彼岸はその失われた世界に生まれる唯一の大事な時であります。にもかかわらず精神世界喪失の証拠に大事なお彼岸の時期に体育祭等の催しに心を奪われている現状は、何としても改めなければならない事でしょう。三月二十七日は、中国の高僧、善導大師の御命日であります。世界で初めて浄土宗をお開きになった日本の法然上人は、偏依善導と自ら宣言されますように、善導大師の教えに依って大衆の仏道を確立されたのでありました。それは、善導大師に依って開かれた世界は、深い深い心の世界でありました。観無量壽経の中に、「三心を具すれば必ず浄土に往生することが出来る」と釈尊は告げられます。そしてその三心は「一者至誠心、二者深心、三者回向発願心」と述べられます。いまの言葉に直しますと、「一つには、誠心に徹せよ。二つには、深い深い心に生きよ。三つには、自分の事は、一切他人の事に身を捧げる所にあると決せよ」と、釈尊の言葉が続きます。その通りに生きていらっしゃる釈尊を目の前にして、「ハイ」と、引き込まれて行きます。長々と説法は続きますが、善導大師は此処で、三心と言う事を吟味せざるを得ませんでした。「誠心に徹せよ」。誠心誠意と言う言葉がありますが、その言葉に偽りはないでしょうか。偽りを覆い隠すカムフラージュになっているように思われます。二番目の深い深い心に生きよ、と言う事も、一寸した事で心変わりする凡夫の心相。三番目の自他一心の生活など、自我主張の渦の中で実現しそうにありません。三心を具すれば間違いなく真実の生活が出来ると言う釈尊の言葉の意味は何処にあったのでしょうか。実はこの三心こそ真実精神の生活の根幹である事の認識を求めるものでありました。求められても一切実現不可能である事は、既に久遠の古に「阿弥陀如来」に依って見抜かれていた物であって、その為にこそ、阿弥陀佛は願を起こし、その三心を成就し具体化に精進された物こそ大無量壽経に説かれる本願の十八願「至心 信楽 欲生」の三心であります。誠心の極地が至心であり、深い心の根源に、疑い無く共に生きる慶びの世界こそ信楽であり、共に一緒に慶びの世界に生きましょうと力になってくださった命こそ欲生と言う如来の願力でありました。昔から「十八願」と言われて来た言葉の意味は、久遠の昔から今日まで、私達凡夫と一つになって、真実の精神にきずいて呉れる事を願って叫び続けて下さったお声が「南無阿弥陀仏」と言うお念仏なんですね。南無阿弥陀仏は阿弥陀佛の全身心が凡夫と共に歩いて下さっている事実を表す声《心を込めて命に呼びかけて下さる声ですから(名告=名に込めて呼びかける)》ですから、大無量壽経に「聞其名号」と、釈尊は述べられて、如来全体の願力念力の込められた名号を聞き身心の全体を任せて称すれば、如来願力に摂取されてあらゆる困難の中に、障りなく生命の歩みが自然に保証されて行きます。これを無碍の一道と言い、諸行無常の苦難の人生を、固執せず柔軟に越えさせて頂く仏法力を頂く事が出来ます。これを和讃に親鸞聖人は、
 南無阿弥陀仏をとなふれば
  梵王帝釈帰敬す
   諸天善神ことごとく
    よるひるつねにまもるなり と歌われ
 宇宙真実の生命体の法身が、凡夫身と一体となっての歩みですから、不可思議の光明海での生活が開かれてまいります。