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熊本県長洲町安正寺
エコウ12月号第348号
2004年12月1日発行
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一日一日が 一生を観る
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真実の生活を尋ねて、早一年最後の月を迎えました。何処に行っても、一年て速いですねーと言う声を聞きますが、今も昔も時の移りの速度に変わりはありません。唯、変わったのは、心の忙しさでしょうか。特に師走はなにかと心のゆとりを失いがちですね。釈尊は死を現実唯今に見つめて行かれました。生あるもの必ず死す。死すべき身をもって今、生あるは尊し。天上天下唯我独尊。一人生まれ、一人死し、一人来たり、一人去る。その一人が生きる為にどれだけの生命の労苦が注がれている事でしょうか。親の恩、人々の恩、自然の恩、身体細胞、一切の御恩。数え挙げれば、無限の恵みに生かされている事実を知らされます。どんなに苦しくとも、辛くとも、大きな願いが掛けられています。その願いの根本に、弥陀の御本願があります。弥陀の本願信ずべし。と八十五歳の親鸞聖人は二月九日朝の四時、夢の中に聞かれました。弥陀の本願こそ、一人一人の真実の命なんです。その命の世界を浄土と表します。浄土の世界は光のエネルギーに満ち満ちています。その光は、三世十方を照らし見る如来の智慧を言います。壽「イノチ」は光の働きです。暗い人間の分別を、明るさの世界に向けて働き続けていらっしゃいます。その働きに出会った心を親鸞聖人は、お正信偈の最初に「帰命無量壽如来 南無不可思議光」と讃嘆なさいました。限りなきイノチと限りなき智慧を賜って生きる身の尊さ。そこに真実の生活が始まります。「本願信ずる人は皆」阿弥陀仏の御本願に出会い、お働きを身に頂いた人は、「摂取不捨」、如来様のお守りの中の生活ですから、物事の中に込められている心を受け取って、明るく、広く、永遠の時を見つめて生きる事が出来ますから、簡単に、小さな自己の分別に左右されず、いつも如来様のお指図を頂いて、安心して日暮しを迎える事が出来ます。そこには限りなき智慧と限りなき慈悲とで支えられている実感がありますから、身心共に安らぎが与えられ、喜びが自然に湧き上がってまいりますね。それを、親鸞聖人は、「大経の中の御言葉、「信心歓喜」を、如来様から頂いた心として、一心に回向して頂いた仏様からの贈り物と知り、みんなこの、御回向の中に日暮しをしているんですよ、と知らせずには居れないと、九十年の生涯を尽くされたのでした。
去る十一月東本願寺報恩講法要に、四日間法話の時間を頂きましたが、全国の御縁の方々が参詣なさって、熱心に聴聞なさっていらっしゃる御姿に、聖人の願いが現実に働いて下さってある証しを、味あわせて頂いた事でした。それぞれの御縁の中で、一人一人が確かな実感の中で歩かして頂く人生ですから、自分の思いを大事にしなければなりません。でもその思いは、自分だけの思いではありません。その思いの中に永い永い間を掛けてイノチの底から願っていらっしゃいます如来様の思いが加わっている事を忘れてはいけません。自分の思いは自分でわかりますが、如来様の思いは自分では分かりませんから、仏法聴聞こそ、真実の生活のカギになってまいります。
仏法聴聞は、今の世界を開くカギであり、今日の日暮しの明るさと広さと勿体無さとを展開する原動力となります。仏様のお言葉に偽りはありません。信ずべき物。それは唯一つ。仏説である本願のイノチの念力が込められてある、お念仏こそ、世を照らす光であり、世を正す働き《大行》であります。小慈小悲も無き身であっても、大慈大悲の働きを頂いた身は、知らされた慶びに応える意味でも、一人でも御縁の中で慶びあう事こそ、与えられた人生を頂いて生きる身の証しでありましょう。
本願寺報恩講法要には、熱心な方々にお会いし、慶びの言葉、心の中を打ち明けて、問い正して下さった方々と共に「諦聴諦聴」《タイチョウタイチョウ》と呼びかけられる如来の直説を、大事に大事に聴聞させて頂きましょう。如来様と御一緒ですからね。 |
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