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熊本県長洲町安正寺
エコウ11月号第347号
2004年11月1日発行
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如来真実のお言葉に出会う
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十一月、お霜月、真宗門徒にとって深い御恩を知らされて、報恩の心を思い立たせていただく時ですね。親鸞聖人は九十年の生涯を挙げて「真実」と言う事を徹底して解明して下さった方であります。
両親に別れ、両親を求めて出家。亡き人の世界、それは佛の世界。佛とは何か、そこには膨大な釈尊の教え「経典」があった。特に柱となっていた「法華経」を中心に、戒。行。慧。の三学に精魂を傾け、その成果にむけて二十年見出されたのは、根気拙しと言う事であった。これは個人的能力の問題であろうか。既に法然上人は、念仏の道場を吉水に開き、あらゆる階級の人達が寄り集まり、聴聞念仏している事実を見聞する中に、これは何か。一心に仏道を学び行じても成果を得られない物を、唯念仏申すだけで救いが実現するとは思われない。思われないからと言って、否定する事はできない。仏道は一人一人の問題であって、右か左かは自己自身の決断にかかっている。明らかに自己自身に認識する事が要求される。百日の六角堂参篭は、真の自己自身の認識の決断を迫っての事でありました。九十五日目の暁、呼びかける働きに出会った。「真実の仏道は真実の生活にあり。」仏道は特殊な人達の道では無い。十方衆生の平等に等しくたゆまなく歩み続ける道である。それは願いでありイノチその物である。その道の証しと成るものは何処に。実はそこに道ありと言う強い促しを得て、法然上人を尋ねるべく堂を出た。それから百日降るにも照るにもいかなることがあろうとも法然上人を尋ね念仏の本心の解明に向かって行ぜられて行かれます。その事は奥さんの恵信尼公のお手紙に記されています。
実はこの時、出家在家を問わず官であれ、民であれ、庶であれ、総てが平等に同じ尊いイノチに生かされている事実に出会われたのでした。
真実は人間の誕生と同時に行ぜられてあった。
それは涅槃経に、真実は如来なり。如来は真実なり。大無量壽経に、如来は苦悩の衆生を哀れみ、真実の利益を得せしめんが為に、この世にお出ましになり、教えをお説きになったのであって、その外に他意は無い。いわゆる一人一人が真実のイノチに目覚めそのイノチに生かされ生きて行く所に永遠のイノチの完成がある事実をお念仏に頂かれたのでありました。「念仏」はイノチの声。声なき声。阿弥陀仏の声。その声の心は、一人一人の心の目覚めを願い続ける如来大悲の本願招喚の声と親鸞聖人はお示しになります。他を自とし、自を他と共なる世界に生きんとする心、それが願いとなり、その心と働きの名を南無阿弥陀仏と成就して、総てのイノチの中に生きていらっしゃる事実に出会われた親鸞聖人は、此処に真実の大道があった。この道は一人も漏らさず生かし続けている大いなる道であり、その道に立つ時、何物にも代えがたい尊いイノチ「力」それを「願力」として頷く所に、願力その物がその人の力となって発揮されますから、「この世の利益際もなし」と言われる。広大なる喜びが湧き上がって来ます。その喜びは御恩の中に包まれて、一切が如来と共なる生活となり。総てが「今現在説法」《今現に如来様が私に寄り添って静かに語りかけていらっしゃる》の事実の場の認識により、その声が、我汝と共にありと言う力強い心の声として響き、その声が聞こえる所、身心に不可思議なる生命が漲ってまいります。これを親鸞聖人は「佛力」「他力」「本願力」「阿弥陀如来、釈迦如来、真実力、十方諸佛の護念力」の証しと頂かれて仏様と一緒の生活をお念仏に頂いて行かれました。
念仏生活は、聞法生活。如来真実の声無き声を現実生活のなかに聞いて行く、ひとたび聞けば、聞こえなくても聞こえて来る生活、いつも「大願業力」に護られている人生、そこに真実の生活があります。それを開くのは仏法の、み教えに遇う他にありません。 |
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