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熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第346号
2004年10月1日発行

仮の自力から真の自力へ

 

 暑さ寒さの此岸を越えて、彼岸の世界在ることを知った私達は、いよいよ聞法の座に住まわせていただく事を、日暮しの中心に置かなければなりませんね。
 「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って、信長の焼き討ちにあいながら、焼死した叡山の僧の姿に、人間の最も大事なあり方が示されている様に思われますね。大無量壽経のなかに、釈尊は私達のあるべき様として次の様に述べられます。
 「虚しく百年生きるよりも、真実の道を知り、その道を一日生きる方が尊い」「その為にも、たとえどの様な事が起ころうとも、その中を突き抜けて正しい教えを求めよ。正しい教えは、かならずその人を真実の世界へ導いてくれる筈である。導く力こそ御念仏にほかならない。念仏は佛の念力です。佛の念力なくしては、御念仏申す事も出来ないのです。念仏申す事くらい簡単な事と思っているでしょうが、その実、全く念仏が申されない日常が続きますね。念仏が申されなければ、どうなっているのかと、振り返れば、無明煩悩の心がいっぱいで、ほかの人の心を受け入れる余裕がありません。それどころか言い争って我を是とし、彼を非として負ける事をしりませんからその争いは果てる事がありません。代々受け継がれて止まることは不可能ですね。
 これを業道自然と言い、いよいよその力は加担されて世界動乱の根源となって、人の業(ワザ)では解決出来ません。経典の中にその事を「冥(ミョウ)より冥に入り、苦から苦に入りいよいよその世界から足を外すことは出来ない。」そこに親鸞聖人の言葉があります。「地獄は一定住みかぞかし。恥ずべしいたむべし」人間の愚かさ弱さ、邪見驕慢の暗黒の世界の中心人物が此処に居る。それは他ならぬこの愚禿なる親鸞。その親鸞一人の為に弥陀は永い思案の末、清浄なる真実の精神そのものの行を完成し、その行そのものに成り究まれたのが、南無阿弥陀仏の御名号であります。
 それを親鸞聖人は真実の行と御示しになります。だから御念仏の声の中には、如来の全精神の念力が篭っています。とても人間の力量で疑い尽くす事は出来ません。もちろん疑いを許さないなんてチッポゲナ思慮など如来にはありません。唯苦悩の中に沈み続ける人々の姿に涙して、その人々を背負い続けて、自覚の眼の開かれるのを待ち続けて私達と共に歩き続けていらっしゃるのです。その声が御念仏なんです。南無阿弥陀仏は親の声、親の心が届けられた声。念じられている声、声は心の響き。如来は人々の暗い心の後ろにあって、ひと時も離れず護って下さってあります。それがそれぞれの御家にお迎えしている御仏壇「オナイブツと言う」ですね。「御内佛」は人間の命の中心にずっと立ち続けていらっしゃるんです。それを先達の人達は「お立ちどうしの阿弥陀様と心に頂いて日常の生活を送っていました。その事で日常の生活が阿弥陀様と共に過ぎていたのですね。朝起きて夜休むまで仏様と御一緒でした。陰から護って下さるから御蔭様なんですね。そこには必ず感謝がありますから、自然に報謝の行動があらわれてきます。ある人が言いましたね。自分の為と思って行動する善行は、必ず悪行となり、人の為と思ってする行動も逆行して思わぬ悲劇を生む事ともなりかねません。そこに人間の行動が自力の計らいから起こる場合、自己自力の思惑から出てくる行動は、自分の思いと行動を、是認する立場に立っていますから、双方の思惑の相違により、是と是の争いとなってせっかくの善行も台無しになって、憎しみの坩堝「ルツボ」に転落してしまいます。その悲劇を免れる道。それは御念仏の念力に帰して、自力の計らいを如来様にお尋ねして行動する所に、あやふやな自力である仮の自力がお念仏の力によって真の自力の行動となって、念仏者は無碍の一道なり、と言う真実の生活が保障されて行きます。