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熊本県長洲町安正寺
エコウ6月号第342号
2004年6月1日発行
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聞法は虚妄分別の不安を解消する
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| 先月三十日と三十一日の二日間、大牟田市の浄信寺様で永代経の御法要で「安き心」と言う講題で、お話しをさせて頂きましたが、この不安の時代を如何に生きるか、これは皆の命題でもありますね。今日程不安に満ちた時代は無かったとも言えます。でもその時代その時代何時でも不安の無い時代は無いとも言えます。それは人間の宿命でもあり、まさにそれこそ、人間の使命でもあります。知る事を人間の能力とすれば、今を知り、未来を知り、過去を知る時明日はどうなるか、と心配し、過去からの流れを追い、未来を憶測しても、予見を外れて思い掛けない現実の積み重ねを経過して思いはいよいよ不安へと駆り立てられてゆきます。然し、不安からは、安んずる心は生まれようはありません。もともと私たちの知見、意識、感覚は正浄でしょうか。もし正浄だとすれば、不安がある筈がありません。不安があると言う事が、不正浄である事を表現しています。実はこの事を、無常の中に居る人間の意識感覚を、「虚妄分別」と教えられます。絶対真実ではありません。真実意識の感覚、それを明らかになさったのが、仏陀釈尊の教えであります。佛は、観経には、「浄業成者」と示されます。浄業と言うのは、清らかな働き、清らかな働きは清らかな心から出てきます。清らかな心は、差別無き心であり、全ての存在を満足して生かしめる願いに生きる。そこに本願が示されます。全ての上に働く本願を、弥陀の誓願と教えられます。弥陀の誓願成就して、一切の有情〈十方の衆生〉の一人一人を確実に正浄なる意識〈現にある一切の存在は全て連関をもって生かされて居る存在〉を持って生きる時自分と他人との隔たりを近くに意識し間を保つ所に人間が成立します。命の奥底に、本願の法〈生命体〉があります。生命体の心を〈本願〉と言います。全ての人が平等に持っている物であればこそ弥陀の本願と言います。弥陀の本願は教えられて初めて気がつく心でありますから、本来持っている心でありながら、元々もっていなかった心であると共に、全ての人の心にある事を知れば阿弥陀仏より回向された物と知る事が出来ます。阿弥陀仏はこの世に釈迦牟尼佛とお出ましになり、自ら阿弥陀仏を仰ぎ、その心の願い〈本心〉を示し自らその道に立ち、その道の功徳を体感実践して説かれたのが。弥陀の三部経、浄土の三部経であります。その教えを聞く一つで、この世に生まれた真の意義が明らかになり、この一生をもって本来の自己の完成を成し遂げる力を頂く事になり、何も思い残す事も無い人間道を頂く事によって一切の不安から開放されて、大無量壽経に説かれる、信心の智慧に開かれて、虚妄分別の心に立つ無明煩悩の世界の幻影に脅かされている不安が佛の智願に照らし破られて、親鸞聖人が宣言なさった、雑行を棄てて本願に帰す。と如来の決断が私の決断となり、私の決断であって如来の決断であればこそ何事にも妨げられない安心が得られます。それは、全宇宙に遍満したもう諸仏、諸菩薩、諸天善神悉く念仏者を、悪魔も外道も、百重にも千重にも取り囲んで夜昼常にお守り下さると、親鸞様は叫んでいらっしゃいます。
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