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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第341号
2004年5月1日発行

念仏は如来様同道の生活

 

 四月の末あたりから、五月のゴールデンウイークの事がラジオの放送で取り沙汰されていましたが、海外旅行も思うように行かない情勢ですね。人間の一生。人生とは不可解なりと叫んで自ら華厳の滝に身を投じた、藤村操氏がありますが、考える葦として出発した人間がどれだけ努力しても、抜本的解決は不可能でしょう。何故ならば、この問題は全人類の問題だからです。今、イラクを中心として、殺人と言う行為が日常の営みにも似て行われている現状は仏教に説く、末世の様相その物ですね。お互いに我こそ正義なりと名乗り、相手を鬼畜と蔑み、自分の利益のみが眼中にあって、他の不利益等全く意中にない世界全体の状況は釈迦牟尼如来出世の時代より益々その凶暴性は知識の増大と共にエスカレートして止まる事はありません。それを釈尊は五濁増と示されます。愈々増大して行くだけです。それは、唯煩悩による知識だけが強大になり、生命の探求が忘れられて来たのではないでしょうか。自己拡大のみの知識に終わり、人間として間的関係存在の真理の覚醒に欠けています。実はそこに、如来出世の本意がありました。
 大無量壽経の冒頭に、釈尊は〔如来無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう〕と述べられます。如来は一切を平等に、清浄心を失って争いあう双方を大いに悲しみご覧になって、正観と言う正しい見解による真心を与える為に、この世にお出ましになります。其処の所を続いて次の様に述べられます。[世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり]その心は、世界の全ての生あるもの、特に人間においては、この事を知ってほしい。宇宙の中にある生命体の実相を認識し、調えられた生態系を護り、共に生きる道の義を弁え、如何なる存在にある一人おも漏らさず慶びの人生を送る生命の原理を一人一人に既に与えられている事を知らせる為に、世に出られたと言う事ですね。
 それを親鸞聖人は、正信偈の中に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と述べられます。
 阿弥陀仏の本願こそ、人間一人一人の心の奥底に、失はず、滅せず、壊れず堅持して下さった真心。即ち大信心なんですね。これを親鸞聖人は大菩提心と示されます。それは、全人類に対する無我の絶対愛を表します。と、お話しますと、首を振って「それは難しいでしょう」とおっしゃいます。そのとうり難しいんです。だから争いどうしで、平和などありません。でも平和でありたいと言う願いを捨てるわけには行かないですね。その一切衆生の願いを一身に受けて立ち上がられた方が法蔵菩薩で、その願と行とが成就して、「成就して」とは、願と行とが共に適えられた、所謂、そこに願も行も失わず願も行も実践されている最中の世界に生きている安心、そこに信心を頂くと言う言葉の世界があります。願と行の生命体の名こそ、南無阿弥陀仏の名号でありますから、お念仏申す所に、あいも変わらず日常流転の生活の中に、全生命体の永遠の願いと実践が執り行われている事実こそ念仏の音声ですから、その念仏の声は如来様直々の正覚の大音声なんですね。