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熊本県長洲町安正寺
エコウ2月号第338号
2004年2月1日発行
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真如の月は清浄の光 |
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二月はキサラギ。如月とも衣更着とも書き、特に文学の世界ではそれこそ、百花咲き乱れるように、表現は深く広く開かれていますね。
ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃 西行の句ですね。二月十五日は、お釈迦様が伝道の旅の中八十年の生涯」を終え、涅槃の世界にお入りになった日です。
その時、林の木々は全勢力を振り絞って悲しみ、共に身をあげて葉の色は消え失せ地に落ち、シンとして音も無く、回りには鳥や動物たちもお釈迦様の側近くにて声を失ったと伝えられています。
それ程釈尊の生涯は天地自然萬物と一体の歩みであった事を表しています。二月十五日を涅槃会と言って、釈尊入涅槃を思い、法会が勤められます。人間の死。生と死を窮め尽くして真に生き真に死ぬ道を説き終えられたのが釈尊であり、仏教であります。
出離生死「シュッリ、ショウジ」と読みますが、生と死を。いわゆる人生を苦の連続と見定め、その苦からの脱却の道を説かれたのが四諦八正道と言う最初の教えでしたね。苦の因は集にあり。集を滅する道を修すれば、自然に楽「ヨロコビ」の楽しみを頂いて生きる事が出来ると、教えられました。集と言うのは、人は皆、聞くもの見るもの触るもの、みんな自分の手元に集めて、自分の奥深くにしまい込み、取捨選択「シュシャセンタク」が出来なくなって、心の中は混乱し、憂い悲しみ嘆き苦しみの日日が表われて人生は苦なりと言う現実があります。 生まれてから死ぬまで、今日では八十年を越して、百歳を過ぎ、人生とは何か、よくよく考えてみなければなりません。
死を前にして釈尊は、お弟子に向かって申されました。「もう間もなくこの身は終わるであろう。でも私は死ぬ事は出来ない。煩悩の為に痛められている人がある限り、たとえ身は亡くなっても、慈悲の命は働き続けるであろう。それが涅槃である。」その時説かれたのが「涅槃経」でありました。三法印と言われる仏教の旗印の三つ目が「涅槃寂静」(ネハンジャクジョウ)ですね。寂静は、天地自然の声無き世界を表し、声無けれども大いなる働きをしています。涅槃は一切の内外の義と理とを知り尽くした智慧を表しますから、真実の働きその物を表します。
涅槃に入られた釈尊は、真実その物の働きとして今現実世界に慈悲と智慧との働きをもって一切の人々の中で働き続けていらっしゃいます。
それを親鸞聖人は、御製作になった正信偈の中に
証知生死則涅槃 「ショウチショウジソクネハン」
天親菩薩のお示しによって如来の願い心にお会いすれば、その心はいつもその人と共にありますから、人生その物はいつも涅槃を離れる事はないので、人生の全体が如来涅槃の命と共にある事を知り、いつも行くべき帰るべき真実世界が、今日の日暮しその物の中にある事を知れば、朝な夕なに御内佛の前に座し合掌礼拝し、蓮如上人が御門徒の日課として朝は御佛飯を上げる前にお正信偈のお勤めの後、聖典の中のお言葉を戴き、仏陀のお言葉を指針として一日の出発とさせて頂く時、日常生活が自然の大いなる阿弥陀の働きに護られた、生活が保障されて行きます。清沢先生は、阿弥陀仏の摂護「ショウゴ」の中の日暮しを、「天命に安んじて、人事を尽くす」と大安心の道を歩まれました。
天命と言うは、天地に満ち満ちている、阿弥陀仏の大いなる願による、釈尊のいのち涅槃の生命体が、人の身に満ち満ちて下さるのです。人生即ち涅槃。常樂我浄が開かれます。
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