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熊本県長洲町安正寺

エコウ1月号第337号
2004年1月1日発行

真人生のあり方を問う

 

 平成十六年の年が明けましたが、漢字一字で表せば『虎』と言われた十五年を過ぎ、猿の年と言われる今年は、どんな年となるのでしょうか。テレビのニュースで猿山の猿達も雪の寒さに、係りの人の焚くストーブの側で、震えながら寄り添っている様子を見ましたが、「寒いねー」と、声を掛けたくなりましたね。
 大無量壽経の下巻は、上巻で真実の世界である、阿弥陀仏のお国である御浄土の世界の憲法とも言える四十八ケ条の本願精神が説かれ、その精神達成の為の歩みの姿と御浄土の環境整備の姿を詳しく説かれたお釈迦様が、身をもってその国に生まれて生きる姿をはっきりとお示しになる経典ですね。
 四十五年間の釈尊の説法は、大無量壽経上巻に説かれている様にこの世に於ける現実生活をいかに意味深く充実して生きるかと言う事を身を以って生き、その道と道理をつぶさにお説きになったのが仏教、釈迦牟尼仏陀のみ教えですね。その出発点になったのが、四門出遊と言われる物語りです。十九歳になられたシッタルタ太子は老人を見、病に苦しむ若者を見、終に命終わって川に流される人を見送る悲しみの中に行く一群の人の流れを見た時、人間、生きると言う事の内容を深く見つめざるを得なかったのです。
 それぞれの環境に生まれ、それぞれの身をもって生きる人の相違性はあっても、それぞれに苦悩の域外に出る事の困難性を如何にして可能にし得るか、困難に立ち向かって打開するには、心身を強固にするほかに無いと、修行者の人の道に身を入れて、心身をいかなる困難にも耐えうる物とする為に、五人の友と馬に乗り夜中に宮殿を抜け出して修行者の場とする山中深く分け入り、勤苦六年と、経典には記されてありますが、当時難行と言われる諸行の全てを行ぜられたと言われますが、身の肉は無くなり、血管が骨にくっつき、アバラ骨の奥の背骨が前から見えるくらいに断食の行が続けられ、呼吸の音が身全体に響きわたって、宇宙の音と呼吸の音とが重なって、これをこそサトリと勘違いするのではないかとサトリ、これは苦行によって体得する世界であれば一種の偏見とも言える認識であると言える。その行を続ける限り、生命の存続は不可能である。生命はいかなる物であるか。生命によって生かされている身。生命は一人一人の思いを超えて、尚生かし続けている。生命の意志その心に尋ねる事が、生かされている身としての先ずなすべき道では無かろうか。
 今此処に居るこの身。五人の友と修行の場に居る身ではあるが、既に一人の男子の親であり、たった一人の、終には国王となるべき皇太子としての身であれば、国王、皇后の二人の親を持っている身である。彼等はどうしているであろうか。関係の中にいる身として、あまりにも無責任である。しかしこの事の解決無しには、すべての人の生きる意味の解明にはなり得ない。関係の中のこの身。先ずこの身の出発から考えてみなければならない。
 我此処に在り。何処から来たのであろうか。父あり、母あり。父母あればこそ我在り。我は父母の創作であろうか。否。父母を離れて今此処に在り。創作であるならば、常に作者に拠らなければならない。拠らずして今離れて此処に在る。それは、我は創作物にあらずして自ら生まれ来し者なり。しかし自分で自分をこの世に生まれさせる事は出来ない。生まれる意志はあっても自分ではいかんともなし難し。幸いなるかな、父あり母あり。父母の縁あればこそ今我此処にあり。今我此処にあるは父母の、特に母親の命をかけた養育と、父親の思念との恩恵無くしては人の身は在り得ない事実を思えば、なお更の事、人としてのあり方を深く思い知らなければならない。
 自由でありつつ、一切の関係の中にある身の在り方は如何に。今年一年じっくりと尋ねてまいりましょう。