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熊本県長洲町安正寺
エコウ12月号第336号
2003年12月1日発行
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真実の瞬間は、お念仏の声 |
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早くも平成十五年も最後の月を迎えました、真実の瞬間と言う題で毎月尋ねて参りましたが、真実と言う事について涅槃経では、如来である事を明らかにして示されてあります。真実は如来なり。如来は真実なり。ある研修会に参加された方からのお話しに、こんな質問があったそうです。それは、真実は事実と言うものとは違いますか、と言うのですね。私たちは、いつも現実唯今に生きています。生きると言う事は今をおいて他にありません。昨日は過ぎ、明日はまだ来ておりません。この身をもって見、聞き、食べ、動き、考えるのは今をおいて無い筈です。そこでの事実はこの身における感覚で捉えられた事実の他にありません。確かにその人にとって現事実ではありますが、真実とはいえません。それは、ある一点から見た事実に過ぎないからです。ある一点と言う一点は無限にあります。百人居れば百点。万人居れば万点。一億居れば一億点。それぞれの事実は違って来ます。そこに今日の社会の問題。国際間の問題の複雑性があり、解決の困難性があります。小さくは、家庭の問題。大きくは世界の問題。どちらにしても、事実を見る眼の違いから、いよいよ混乱の度合いを深めて行く他に無いのが現在の事実ですね。
では真実とは、いかなるものか。真実と言う事について親鸞聖人は次のように述べておられます。
真と言うは、偽らず諂わずを言うなり。実と言うは、すべて物の実(ミ)となるなり。また身となるなり。
偽らず諂わず。私たちが見ている事実は、皆自分にとっての利害損得、自己の存続の安否を基本にした見解による事実の他にありませんね。そして全て物その物となりきってその物の実を結ばせる。その物を成立させるはたらき、また身となるなりと述べられるのは、真実は、一人一人の身となり切って一人一人を充実せしめ、一人一人の人生を完結せしめる働きを真実と言いますから、それは、如来のほかに無いことは明瞭になってまいります。
それはそのまま、人間の思考が不真実であり、虚偽の認識であり、それぞれの身となりきって、常に真実なれと働き続けていて下さる如来の命に向かっての罪の深さが知らされます。
人間の心を十の世界に開いて見せて下さったのが十界と言う仏陀の説ですね。どのような道を歩いているのか。@地獄=苦しみ悶え暗黒の生活。A餓鬼=求め求めて不足を恨み、有る物が見えない生活。B畜生=誰かに気を取られて、自己自身の立場を失って、ふらふらとさまよう生活。C修羅=本質を失ってイライラして安定を失った生活。D人間=明と闇との分岐点です。真実を求めて行くか、欲(ヨク)と楽(ラク)だけを基本にして生きるか。決定は一人一人の意志に任されています。それを親鸞聖人は「めんめんの御はからいなり」と示されます。自己責任ですね。決定した道の結果は一人一人の身に掛かってきます。自然の道理です。E天上=調子が良ければ有頂天に登ります。ノンちゃん雲に乗ると言う作品がありましたが、足が地を離れて浮き上がるんですね。つまり浮き上がった生活。F声聞(ショウモン)=仏陀の言葉を聞く。教えを中心とした生活。G縁覚(エンカク)=教えに頷く生活。H菩薩(ボサツ)=少しでも世の中のお役に立ちたいと言う生活。I佛=正しい人間生活。正しい人間生活を佛として記しましたが、仏陀が衆生を佛にすると言う誓願を立てられたのは、混迷し続ける人間社会を、正義(ショウギ)に立った国(セカイ)にして、仏陀の精神。真実の精神に立った人間の誕生を願って、たった一言の真実の言葉、親鸞聖人は真言と言われますが、南無阿弥陀仏の声。その声が、真実の心と働きの声で、真実の国を開き、真実の人として生まれしめ、歩ませて下さる時の相続を真実の瞬間と言います。
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