|


熊本県長洲町安正寺
エコウ11月号第335号
2003年11月1日発行
|
真実の瞬間は、阿弥陀仏の常照護念 |
|
|
十一月の御霜月を迎えましたが、親鸞聖人の御恩を報ずる、報恩講法要が全国の真宗寺院で営まれます。今年は、本山では御満座の明けの日、聖人の御影が、阿弥陀堂に御移りになります。二〇一一年に宗祖七五〇回御遠忌法要が営まれますので、御堂修復の為御移し申し上げるものです。
真実の瞬間と言うテーマで一月から始めて十一月を迎え、親鸞聖人こそ、この真実について窮められた方は無いのではないかと思います。
その著、「教行信証」は真実そのものを経、論、釈を用いて自らの領解を述べ、世界に真実の行と信を公開して下さったのであります。行は生活を表します。信はその精神を表します。つまり真実の精神と真実の生活を明示して下さったのであります。この上は宗祖のお言葉を頂き、それに従って歩ませて頂くばかりでありますが、これこそ人生畢竟の道、真実道と言う事が出来ます。
真実の教は大無量壽経なりと御示しになります。お釈迦様四十五年間の説法は唯この一教を説く他にはなかったのです。それはこの宇宙に満ち満ちている一切の生を、完全に生かしきる働きこそ自然の法則であり、法そのものであり、そこにこそ法の意志である志願が満ち働いている響きこそ「南無阿弥陀仏」の法の声であります。
その法の声こそ、真実が働いている証明の他にありません。何故ならば、その声は、真実の身、真実の口、真実の意、から出た声であります。真実の国は弥陀の浄土。その国は広大無辺、弥陀の国ならざるは無く、真実その物が働いている国です。しかし私たちの住んでいるこの世界は、真実とは遠く離れた虚仮不実に満ち満ちた世界であります。その為に建立された国こそ弥陀の国でありました。弥陀の本願は苦悩に満ちたこの世界に住むあらゆる生命にある存在を、生命そのものを満足せしめる認識を確立して下さったのでありました。それが本願の一つ一つであります。一一の本願に唯称弥陀と誓われます。釈尊は無量壽経の三経に、念仏一つを説かれます。そして念仏は一切諸佛の勧めでもあります。それは真実に目覚めた人を佛(覚者)と申し上げるのですから、佛は真実である如来を賛嘆する他にありません。如来は老少善悪の隔てなく、平等に至り届いて真実の生命体を身をもって与えて下さってありますから、祈り頼む必要はありません。
それは弥陀の大悲心から起こされた本願だからです。もし、真実を得る為に、こちらから祈り頼む必要があるならば、祈り頼む力が必要になります。その力とは、真実に値する智慧と意志が必要です。煩悩具足の凡夫、無知無能の輩。求めようもありません。また得られたとしても、それを真実と見る眼も心も持ち合わせがありません。そこにこそ、真実の中にありながら、妬み嫉み恨みの中の生活を繰り広げているのではないでしょうか。智慧を光明として示されます。それは、智慧の光明によって、見えなかったものが見え、邪正の道理が明瞭に分別出来る眼が与えられ、あらゆる物を真実の世界からの贈り物として頂戴する能力が開かれます。如来の光明は常に照らされてあります。親鸞聖人の御和讃に。
光明照らして絶えざれば、不断光佛となずけたり、聞光力のゆえなれば、心不断にて往生す。とあります。如来の光明は、昼夜分かたず照らし続けられます。不断光の働きによって、眼が育てられ、光明摂取の働きによる日頃の生活の一つ一つが納得されてきます。難の中の生活が、易なる状況に転ぜられ、お蔭様でと、勿体無く頂ける世界が開かれて来ます。光明無量の照射のなかで、煩悩妄念の思いが静かに転成されて、深い大慈悲の護念の中に生かされている念力を感ぜざるを得ない世界に引入されて往く悲願の働きを「南無阿弥陀仏」と答えずにはおれなくなります。そこに、無始以来の如来の働きと共に、全ての先達の護念が身にひしひしと伝わってきます。そこに、弥陀は常照し、先達は護念して、真実の瞬間ならざるは無し。と知らされるところに、お念仏があります。
|
|