|


熊本県長洲町安正寺
エコウ10月号第334号
2003年10月1日発行
|
末法五濁の世に、生きる瞬間の行 |
|
|
真実の瞬間、唯今の一瞬に、過去永遠の真実が結集しています。自業自得、因果応報。何もかも一つとして例外はありません。台風、地震、津波、火災。宇宙の営みに狂いはありません。でも人間の営みはどうなっているんでしょうか。お経の中に、人の思いと行動に狂いが起きれば、四季の移ろいに狂いが生ずる。と、示されます。阿弥陀経に、釈尊は、「五濁、悪時、悪世界に、難信の法を説く」といって、一切世界の真理に目覚めたいのちあるもの全てが「南無阿弥陀仏」を賛嘆しその名を称賛してやまないと、説き、この難信の法を今説く事が出来たと、自ら生命の最終的使命達成を慶ばれました。
その念仏の法こそ、真実の世界を表す真実その物であります。
その念仏の起源を「仏説無量寿経」に超世の本願と言われる、人類が求めて止まない真実の世界建立の志願と、実現の為の実践が阿弥陀仏によって成就された歩みとして、余すところ無く教説されています。
本願成就して建立された弥陀の浄土は、「南無阿弥陀仏」の念仏の声として、人々の精神に真実の世界を開いて下さいます。真実、平等、平安、歓喜の国を開いて下さいます。
精神に開かれた国に住む人を「不退転の位に住む人」と、教え、その人は国の心と身を得て、障り無き人生を歩み尽くす人、と褒め、私のもっとも親しい友、と、お釈迦様は願いを込めて述べられました。お念仏は、慈悲と智慧との働きをもった、阿弥陀様のお働きで、私たちの行動を常に照らし護り導いて下さってあります。
その光に遇う人は、自然に頑なな我執の扉を開き、柔らかい春の風が吹き込み、心身を和らげ、周りを暖かく包み、自利利他の世界の感覚が与えられる身を証する事が出来るんですね。『不退の位速やかに、得んと思わん人は皆、恭敬の心に就持して、弥陀の名号称ずべし』と、親鸞聖人は龍樹大師のお示しを和讃しておられます。不退の位は、如来の願い(弥陀の本願)に直結された道に立たされた人の心身の安らぎを表します。そこに弥陀の本願が、まさしく全人類の願いである事を知らされる時、偏にそこに心身が収められて安心不動、不退転の境地位。「不退の位」に付く。それを「正定聚」の位に入ると説かれます。「正定聚」の位は、全ての仏教で、最終的境地と、掲げている位であります。正しく必ず仏になる身である事を証明する位ですから、この位無くしては、佛にはなれないわけですから、佛になるには、なくてはならない「位」ですね。必ず佛になれる身と言うことは、佛の能力を持っていなければなりません。涅槃経の中に、釈尊は「一切衆生悉有仏性」と説かれます。一切衆生を離れて仏性は無いと言う事ですね。仏性は佛のいのち。佛の本来性。如来の本質。衆生を漏らさず、清浄、平等、真実心に建たさずにおかぬと言う志願成就の本願の現行が「南無阿弥陀仏」のお声であります。その声を聞く。これが衆生にかけられた願いであります。本願名号が説かれる「無量壽経」に人間世界の現実相が詳しく述べられます。
五悪、五焼、五痛。人間我見からの生産は我他彼此(ガタピシ)の道理によって、自損損他。自害害彼、共に苦悩の底に沈み、愈々自障障他、怨憎会苦の暗黒世界を現出する、今日の世界の様相が証明している事実こそ如来本願の対告衆があります。
「末法第五の五百年、この世の一切有情の、如来の悲願を信ぜずば、出離その期はなかるべし」と、末法の世の真の仏道。真の道から離れた人の世を、真の道に帰らしめる法則は如来の大悲の本願を信受して、無量壽如来に帰命し、不可思議の光力を頂く他に道は皆無と目を覚ます時であります。
観無量壽経に、人間の思惟と行動の不実性を真実に変え転ぜしめる行として、無量壽佛の名である「南無阿弥陀仏」を称えよと、最後に呼びかけて下さってあります。
|
|