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熊本県長洲町安正寺
エコウ9月号第333号
2003年9月1日発行
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不退の位、速やかに得る、瞬間 |
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速やかに生死を離れんと思わん人は、と法然上人は、浄土宗興行宣言の書『選択本願念仏集』の中に述べておられますが、『唯念仏の他に道なし』と鮮明に語られます。親鸞聖人は『信ずるほかに別の子細なきなり』と歎異抄に述べられます。不退転の決意、と言う言葉は政治家の口からよく出てきますが、人間の思いの中からは言葉だけで実体はありませんね。
弥陀の本願第十一願を、親鸞聖人は今日唯今に頂く念仏者の大いなる利益として頂かれました。
その願を、正定聚・必至滅土と言う位置に人を住せしめる働きとして頂かれました。
念仏は阿弥陀様のいのちその物です。いのちは生かす働きを言います。一つ一つを完全に生かします。そして生きている事をその物自体に承認させて行きます。それを悟りと言いますが、真宗の悟りは、自己自身と環境の一切の真実の世界を認識するにあります。
環境は心境の反映と言われるように、一人一人の思いによって環境は変わってきます。物は思いようと言われるように、人間は自分の思いによって認識し行動して、それを良しとして生きて行きます。欲を起こし、腹を立て、愚痴をこぼし、欲求不満の中に自己を投げ込み、正邪善悪の見境も無く、地獄の中に身を投げて、人と言う尊いいのちを失って、暗黒の世界を積み重ねて行くのが、今日の状況ではないでしょうか。阿弥陀経の中にお釈迦様は、今日の世相を『五濁悪世』と述べられます。時代、世相、思想、社会、生活、が全て濁っている。濁っていればこそ、真相が見えません。手探りで求めても、求めた物が、はっきりと見えて来ません。不満の心で暮らしても、明るい世界が開かれる筈はありません。欲の知恵はあっても、真実の智慧がありません。それを無明と言います。無明は地獄の種です。『地獄は一定、住処ぞかし』と親鸞聖人は懺悔されます。しかしその事が知れたところに、光明が齎されています。闇が闇と知らされた所に闇を照らす智慧の光が届けられている事を知らされます。お釈迦様は観無量壽経と言う経典に、人間の真相を余すところ無く解明し、人間が人間として正しく生きる道として、念仏の一つを最終的に示されます。そしてその事を、もう一度、法華経の中で説き示して、一切の人間が正道を歩く道、念仏のほかに無し、と、繰り返し勧めて下さいます。
人間が真実の世界に生きようとするならば、三つの心を起こしなさい。その三つとは、一つは、真心。二つには、深い心。三つには、全ての人の為に、と言う思いを持ちなさい。と呼びかけ、この三つの心さえあれば間違いなく、真実の世界は開かれて来る。と言明されます。お経の言葉に直せば、一者、至誠心。二者、深心。三者、回向発願心。となりますが、第一の心は、嘘偽り無き真の心。内も外も変わりなき心。第二は、深い心。それを善導大師は、深く信ずるの心。と頂かれました。その深い心を二つに開いて、一つは、自分自身の歩みの歴史を見つめてみて、内も外も変わりなく真心を尽くしたと言えるだろうか、第一に掲げられる至誠心は、全くお手上げせざるを得ませんね。真無き身。世界は火宅無常。身は煩悩具足。何一つ真無き身。苦悩の中にこそ逃れられざる身を、百も承知の阿弥陀仏は一人一人に連れ添って、必ず平安の世界に直ちに生まれしめん、との願いをもって南無阿弥陀仏と言う呼び声となって、ずっとお守りどうしの如来様であることを聞かせて頂けば、阿弥陀様は夜昼共に護念していて下さった事が知らされると、念仏申さずに居られなくなります。そこに如来様のお守りが確かな物となり、歎異抄に『念仏者は無碍の一道なり』と宣言されますように、一切の障りを離れ、摂取護念のなかの日暮しを頂く事が出来るのですね。障り多き日暮しを離れ、障り無き日暮しに変えさせて頂く道は阿弥陀様御約束のお念仏させて頂くほかにありませんね。お念仏その物が如来様御自身ですから、間違いある筈がありません。
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