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熊本県長洲町安正寺

エコウ8月号第332号
2003年8月1日発行

瞬間を生かし調える国の名

 

 広大無辺のみ教えに、永い迷いの夜が明けて、口にはハッキリ言えないが、心の底から肯ける、明るい道が見えてきた。と言う歌が聞こえるようになったのは、戦後四年ほどたってからの法座での合唱でした。明治以来、西洋文化に憧れた知識人の指導の下で、日本文化を守ろうとした人達を押しのけて、終に植民地化への欲望の手を近隣の地へと押し出して行った国の政策は、昭和二十年八月十五日をもって手を引く事となった。その間の犠牲者の数は限りなし、と言ったほうが適当ではないでしょうか。今に尚、後遺症の苦しみの中に生きている人達があります。膨大な国費を使い、同じく生きる民衆を地獄の猛火の中に投げ入れる愚かなる戦の歴史に目覚め、二度と再び過ちは繰り返しません。と誓ったのは夢だったのでしょうか。今また再び愚かなる迷いの淵に手を掛けているような前況が見え隠れします。日本を和国と宣言されたのは聖徳太子で、その根拠を大和の国、和を尊しとする仏陀の経説をもって勧められました。上和らぎ下睦び、共に同一の法の中、聖も愚も、仏陀の法の中には、共に凡夫として、如来真実の教法を仰ぎ、法の真実を具現する尊い存在としての人間を尊重した、国家体制の実現を願われたのでしたが、権力欲に燃える暴挙には、人間の知性は葦の葉の如くなぎ倒されてしまいます。でもこの願い。久遠劫よりの命の願い。阿弥陀仏の願い。法の願いであって、イノチそのものの志願であり、止める事の出来ない本願であり、誓願であります。仏法は聴聞に極まる。と、宣言されたのは、蓮如上人でしたね。如来の願いが仏法であります。老病を包む生と死を超えて、生と死を包む阿弥陀の祈りに帰る所に、浄土往生の生還があります。戦争の愚かさ、地獄の発端、一億総懺悔と言う言葉が新聞紙上に躍っていた時、日本教の中から脱却出来ない人達にとっては、いつかは又と言う再興を願った事であったかも知れませんが、如来真実の誓願に出会った身には、自力我心の罪の深さを思い知らされて、愈々仏法聴聞に心を掛けざるを得ません。それは、真実無き者の、真実に生きるたった一つの道だからです。そこには決断があります。決定心があります。それが、念仏申さんと思い立つ心の起こる時を表します。生と死の間の事のみに関わっている限り、無明の闇の世界から抜け出す事は出来ないでしょう。そこには出発点と到着点の確認がなされていませんから、折角の知性をもった人間としての生を頂きながら、宝の山に入りて手を空しくして帰らんが如し、と嘆かれています。煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、万の事、みなもって空言、戯言、真実ある事なし。ただ念仏のみぞ、真実にておわします。と、親鸞聖人は歎異抄の最後に述べていらっしゃいます。真実とはなにか、人間の歴史は、この事一つを求めていながら見極める事が出来ずにいます。でも既に釈迦牟尼仏陀は真実を明らかに説いていらっしゃいます。その事の事実を南無阿弥陀仏と言う如来と国と働きの名としての言葉をもって浄土の三部経に詳細に説いていて下さってあります。
 南無阿弥陀仏と言う名の如来は天親菩薩が示されるように、十方微塵世界に満ち満ちて、真実の知識に眼を開くように日夜行じて下さってありますが、寸分も間隙の無い法域でありますから、それを以って国が形成されています。
 十方衆生、一人もその国土を離れては生存する事は出来ません。
 生命発生のその時から、実はその法の中に在りながら、その教えに接する事が出来ないのは、真実と言う事の追求と、探求に自己を挙げての欲求が不足している処にあります。
 と言う事は、真実を求める意欲は、人間からは発生しないと言う事です。なればこそ、真実である如来は、真実無き世界の先端である一人一人の全感覚の中に現来し、意欲の発生と、真実の感覚実現の為に聴聞に向かわせて居て下さってあります。時はお盆、一切の諸仏、聞法を勧めて下さってあります。