ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第331号
2003年7月1日発行

永遠真実開花の瞬間

 

 七月は御盆、亡き人を思い、静かにいのちの世界を尋ねずにはおれない時ですね。御盆は盂蘭盆の事を言いますが、盂蘭盆はもと、盂蘭盆経に説かれる亡き母の供養を思い立つ目連さんの物語から、仏教行事として行われています。
 でも、もともと七月は雨季を迎え、田植えを終えた人々と共に、天地自然の営みと共に、いのちの世界を尋ねずにおれない働きをもっている月でもありましたね。そこから機織娘の人を恋うる情緒から棚機となり七夕となり、織姫、彦星の物語と発展し、命の根源の水と、天の川の天空のすがたに思いを馳せて人間としてのさまざまな願いが噴出して来たのでしょう。 
 やはり人間静かに思いを回らす時、過去へと還らざるを得ません。それがまた未来への道となり今のあり方を決する事ともなります。温故知新。古きをたずねて新しき道を知る事も出来ますが、現在自身の存在の根源を振り返る時、親の御苦労を無視する事はできません。
 釈尊が常の言葉として語られるのは、人間は一人の例外もなく皆大いなる御恩を戴いている。父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深い。もし父あり、母あれば、その前に座し、おおいに慙愧し、その恩を謝せよ。人間の歩むでき道を説かれる、観無量壽経に人としての第一歩は「孝養父母」にありと説かれます。
 覚られた釈尊が、真実の法を共にしたいと思い立ち、出かけられた処は亡き母の膝元でありました。自分を産み、産後の無理で命終えた母。生まれたばかりの赤ん坊に、母の面影など知るよしも無い身に命の底で結ばれている無限の力、それを衆生の志願の根源である、弥陀の本願を説かれたのでありました。それは一切衆生の命の中に流れている無限の生命、それを無量壽と言い、阿弥陀と言い、その人の目覚めとなった命を「南無阿弥陀仏」と教えられますね。「南無阿弥陀仏」は無限の命、命は働き続けます。数千年の時を経て、芽を出す種もあります。「南無阿弥陀仏」と称えて、真実の命に触れ、真実の願いに出会い、真実の世界が開かれた人。それは、永い暗闇の泥の中に初めて開いた光明の華、蓮華の花。その芽は「如来本願仏性」の種が一挙に芽を出し、花を開き、光明海中に浮かび、地平と天空が開かれた世界に目覚めの身を得た者と言えます。
 永遠の時空が一瞬に開く事を表します。
 何故一瞬に開く。それは永遠と言う志願と願力とが一瞬の間隙もなく一人一人の命と共に続けられて来たが為であります。その志願を弥陀の本願と言い、願力を観音菩薩と言い勢至菩薩と表し、弥陀観音大勢至の三尊を永遠の真実相と御示しになります。観音は慈悲の働き。勢至は智慧の働きを表しますが、共に菩薩と言う名で表されますように、人の形をもって働きを現します。それぞれの世界に法は斉しく働きます。特に慈悲と智慧とは、人間の命の尊さを表します。慈悲は慈愛の永遠性を表し、智慧は認識の深さを表します。共に人間の尊さを教え、人間生活の基礎を示しています。その根源的基礎が「南無阿弥陀仏」と言う名で働き続けられています。観無量壽経の中に特に、観音、勢至の二菩薩の姿が詳しく説かれていますが、その説法を静かに聴聞する時、人間いかに生きるべきかが、懇ろに説かれている事を知らされます。慈悲と智慧。それは愛と認識を示しています。平等の愛、無我の愛の徹底的実践者。それが「南無阿弥陀仏」と言う慈悲の壽(イノチ)の表現である、観音菩薩として表し、認識としての極地である智慧は、一切を照らし、一つも漏らさぬ愛の実践は、人間の歴史を流れる子を生み出した親の志願の純粋精神の永遠性を勢至菩薩と表してあり、現に今、一人一人に働きかけ続けられている観音、勢至の体としての南無阿弥陀仏の永遠なる壽と永遠なる光の到達点が、今の一息の精神の開花と結実を、歎異抄に「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」と示し、永遠真実開花の一瞬が表されています。