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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第330号
2003年6月1日発行

呼び返される瞬間

 

 六月十日は時の記念日。水時計をもって時を計り、確かな時の流れを人々に知らせた記念すべき日ですね。人間が知識を持つようになって、記憶する流れを保つ為に時を必要としました。昼と夜の一昼夜を十二に分けて、それを十二支に分けて、最初を子の刻とし、中間を午の刻とし、午前と午後に分けて一時から十二時として、人の営みの流れを整えて来ました。
 江戸時代には、日の出と日の入りを本に、明け六つ、暮れ六つが用いられて、四季により差異の不便を避けて、明治以来二十四時間制が用いられて現在に至っておりますが、太陽に面する地球の位置でまた、一日も時間も違ってきます。
 しかし、どんなに違っても今、と言う時は違い
はありません。今現在(コンゲンザイ)の時。それを一時と言います。仏陀の教えを伝える御経の最初に述べられる言葉は、「如是我聞一時佛在」から始まりますね。仏陀が示される真実の言葉に心が開かれるその時、その時を一時と言います。一切の一であり、一生の一であり、真実の一であります。一は一切を包み、一切を独立させ、一本の樹の様に、そこで生き、そこで輝き、一切の一を全うして一に還ります。それを大涅槃と親鸞聖人は御示しになります。帰命無量壽如来。御正信偈の最初の御言葉ですね。無量は無限。無限は一切の有限を包んで一一を生かします。生かすと言う事は、真の一に翻る事です。そこに実の一が輝きます。真実は如来なりと言う涅槃経の言葉が知らされます。如来の真実を知らされて、初めて虚仮のわが身の実態にきずかされるのです。一なる虚仮の闇が一なる真実の光に照らされて、わが身自身の愚かさが知らされると同時に、一なる真実に生かされ続けられていながら、それを知らずに生きて来た罪の深さを知らされ、初めて慙愧、懺悔の心が開かれて、涅槃経に説かれる、人が誕生する。初めて人間となる事が出来ますね。慙愧あるをもって人と名ずく。慙愧無きをもって人と名ずけず。人とは、己の愚かさに目覚め、真実の道ありと、一歩を踏み出すところに人間誕生があります。
 元の妻との離婚の調停で思うようにまとまらずに、自殺を覚悟した男性が、強固な包丁を手に入れ、大阪の池田小学校に乱入。児童八人を殺害。児童十三人と教師二人に重傷を負わせた犯人に、死刑の求刑がありましたが、その理由に、遺族への謝罪もなく罪の意識もなく更生の望みも無い、と述べていましたが、自己の思いの中だけでの生であれば当然の帰結であって、それを、地獄は一定と示されます。一定(イチジョウ)とは、一も二も無く定まっていると言う事ですね。その人の名を「宅間 守」と言いますが、これはこの人だけの名ではなくて、真実の精神世界の教えに遇わず、ただ自分の欲望の心だけに生きている人の名でもあります。いわゆる欲望の世界「屋敷ー宅地」の中の俺がの「部屋ー間」をのみ、守って生きている人の名を表していますね。人多き、人の中にも、人ぞ無き、人人となれ人人となせ。と言う詩がありますが、人を徹底的に見つめ、人を究極的に人と生まれ変わらせる教えが阿弥陀仏の本願であります。それは転悪成善「テンマクジョウゼン」ト言われて、悪の心をもったまんま、その心に大悲の仏心を注ぎ入れて、涅槃経の中に示される阿闍世「アジャセ」のように父を死に至らしめ、母をも牢獄に閉じ込めた、悪逆無道の人間を真実の精神に目覚めしめ、終に、苦悩に追い詰められた人間再生の為に全生命を捧げて悔い無しと言う世界に立ち上がらせた仏陀の教えこそ、仏陀最後の教え、涅槃経なんですね。いかなる悪人も、如来真実の教えに遇えば、善と悪との世界の分かれ目。光と闇との間に立って、闇のわが身を抱き生かされる如来光明の世界の住民として生まれ変わらせて下さる働きを他力本願と言うのですね。宅間 守の名そのままに、如来世尊の屋敷の中の本願の心の部屋の間を守る人間に生まれ変わらせて下さる時が、呼び返される瞬間の時です。