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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第329号
2003年5月1日発行

如来真実の願い

 

 眼に青葉、山ホトトギス、初鰹。五月雨や、集めて早し、最上川。山。緑。川。海。雨。緑滴る日本の風景、それは四季の心を大事に頂いた大和民族の豊かさを表しています。
 桜の花の色調と見事に散り行く姿に、今を生きる心を与えられた身に、青葉は、落ち着いた力を引き出してくれます。
 男の子を祝う、端午の節句に、鯉幟をたてて将来に願いを掛けるのですが、心が伝えられているでしょうか。川の両岸から綱を張り、集められた鯉幟が見事に空を泳いでいますが、川の中の魚たちはどんな思いで泳いでいるでしょうか。
 魚ばかりでなく、未来の世界に生きる子供たちに、自由に泳げる清浄な空気と環境と大地を整えているでしょうか。この事が大人に課せられた大事な問題である筈です。
 国と民族と大衆の問題を根底的に解決しようとしたところに、他力本願があります。政治家のなかから、他力本願ではだめだと言う発言がこぼれ出たりしますが、それは自己自身の傲慢無知を表現している事に気がつかない程に、煩悩に汚染されている事を表しています。
 他力と言うのは、自己の思いを絶対としている人間存在に、生ある全ての存在の願いである豊かな環境と精神を与えんとする働きを言います。その事に目覚めよと、説かれたのが、「大無量壽経」であります。親鸞聖人は、この経を、真実の教と示されました。教えはそれこそ八萬四千と言われるように、数多限りがありません。一つにまとめるとすれば、善を勧め、悪を諌める教えになるでしょうが、善と言い、悪と言うも、自己存在の保全を言う限り、お互いの善と善との戦いとなり、争いの歴史に終止符を打つ事は不可能な現実が、まさしく証明をしています。
 大無量壽経を説かれた釈尊は、終わりのほうで、この教えを聞き、信じ、頷く事は難の中の難である、と述べて、真善美を利善美と変えて活動した宗教団体がありますように、人間の関心は御利益を得る事の他にないようです。大無量壽経には、そのような人間存在に深く願いを掛けて、真実の利益を説き示されます。その願いを本願と言い、その働きを他力と言います。本願は阿弥陀仏が五劫と言う無限の時間をかけて思惟された心を言います。蓮如上人はその事を、思案の頂上と頂かれます。考える葦とか、思うゆえに我ありとか、人間の特質を表しますが、思う事の最終点こそ、弥陀の本願と示されます。 親鸞聖人は、現世における教えの真実を、弥陀の本願に遇い、本願の真実を、浄土の真宗と頂き、その事を世に顕す事こそ、釈尊以来の仏教伝持に命をかけられた人に対する報謝の行と痛感し畢生の書、「顕浄土真実教行証文類」六巻の著述に後半生の命を捧げられました。それは釈尊が難中の難と示される教えに遇い得た歓びを世に公開する事こそ、佛の御恩に報いて、釈尊の願いに御答えする道であると頂かれたからに他ありません。弥陀の本願こそ真実の思惟であり、精神であり、行動であり、生命そのものの運行と頂き、その第一歩の心を「雑行を棄てて、本願に帰す。」と宣言されます。それを蓮如上人は「諸々の雑行雑修自力の心を振り捨てて」と、お文に述べられます。人間の分別は争いを生み出し、「自損損他自害害彼」(ジソンソンタ、ジガイガイヒ)自らを損ね、他を損ね、自らを害し、他を害する。何を損ね、何を害するのか。それは、一人一人に与えられている、真実の精神と、真実の人生を失い、いたずらに、苦しみ悶え、一生を棒に振って、他に対して、不足不満、妬み嫉み恨みをいや増しにして、瞋恚の炎の塊となり、地獄の火中に落ち込んで終わりとなる、全く尊い命をむだに費やす大罪人となる事に眼を覚ます事を、後生の一大事と呼びかけられます。如来は大慈大悲の命を掛けて、「南無阿弥陀仏」の言葉をかけ「南無阿弥陀仏」の信(心)と行(命の願い)を一人一人の生活の中にある事を知ってほしい。これが本願の働きであります。