ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ3月号第327号
2003年3月1日発行

真実を表す彼岸の心

 

 お彼岸の月を迎えて、全ての生命にその息吹が蘇って来ます。越冬した生物は、眼を覚まし本来の姿に立ち返って来ます。山も川も草も木も芽を出して、大気と太陽と水を汲み取り、命に応えて生きる姿に立ち返り、生命の営みに全力を尽くします。
 生命の連帯の中の人間、意識と心と思考と行動とを与えられ備えている人間存在には、大いなる使命があります。
 その使命を身をもってしめされたのが、お釈迦様ですね。ガンジス河の岸に立って、お弟子達に顔を向け、向こう岸を指差しながら、今からこの人生の川の流れを渡って彼の岸に共に行きましょう。彼の岸こそ最後の世界、真実の世界、みんなの故郷、身も心も障りなく、明るく豊かに永久に生きて行く国である。その国は法蔵菩薩の願いと御苦労によって建立された所で、春夏秋冬の四時は無く、また暑さ寒さも無く、喜びに満ちた国でこの岸に生きる者のように、憂い悩み苦しみ悲しみも無く、静かに安らぎに満ちて本来の命に従って生きている。その国は一切の真実が成就した国であるから、一人一人がこの危険な川の流れを横切って行かなければならない。生死の流れ。一息に掛かった人生。明日があるでは済まされない。一息一息で人生の流れは変わる。昨日の因が今日の果となり、今日の果を因として明日の果を持つ。一息一息の舵取りが、永遠の時を作って行くこの岸の現在の相は、真の道を知らない人達によって築きあげられた国であるから、その国の人達の力ではこの国から離れる事は難しい事である。つまり生死を離れる事は困難な事となる。とすれば、生と死の因を断ち切る事がなければ、生と死を繰り返すほかに無い。それは今までの人達が伝えて来た様に生まれ変わり死に変わり生死流転を重ねながら、いよいよその果は厳しく重く重なって行くほかに無い。彼の岸にいる仏たちは皆この岸で、努力精進して真の道を歩いた人達である。その道とは、当然な道。人を憎まず。嘘を言わず。他を犯さず。他の物を奪わず。貪る心を捨て、出来る限り他の喜びを自分の務めとして、親を大事に先輩を尊び、限りなく真実の道に近ずくように心をかけて行く事こそ、彼の岸、彼岸への道である。
 その教えに従って行かれた親鸞聖人は、とても一日も一足も歩けぬ身である事に気がつくまで、比叡山二十年の歳月が必要でした。『いずれの行も及び難し』と悲しみ嘆いておられます。
 これは親鸞聖人一人の事ではありません。既に中国の善導大師が、この事は誰一人逃れられない事実であると言われます。
 お釈迦様も、目連所聞経に、人、種々の行を修して覚者(仏)になる事は不可能である。唯その佛たちがひたすら勧める念仏の道に立つがよい。これが彼の岸の王者、阿弥陀仏の願いであり、念仏の道に立って佛になる事が出来ないと言う事はある筈が無い。なぜなら、南無阿弥陀仏の声が世界に響き渡っている事で証明される。彼岸の世界から来られた人、それを如来と言う。如の世界は一切を離れない働き。共に有る物。物は相を持ち用を持つ。その体を名号と言う。名は物を表し号はその働きを言う。物は法。法則の中に抱きとって、法則に生きる者として、その法則は生命の本である壽(慈悲)と光(智慧)を与え、その生命に従って生きる身となって何の煩いも無く心晴れ晴れ生きて行く事が出来るわけですね。
 これを親鸞聖人は、即得往生と頂かれました。如来に護られて来た人生。今日唯今その事に気ずかされれば、如来様のお護りから離れる事は有り得ないと言う信念から、愚かな身も如来様の御手の中、南無阿弥陀仏の如来様と、一切の諸仏菩薩の護念の中に生かされている今、帰命し礼拝し、讃嘆供養し、聞けよ聞けよと願われる御本願のおいわれをよくよく聴聞させて頂かなければなりません。唯、聞くと言う聞法の他に何もありません。その事一つが如来様に護られている者の報恩謝徳の道であります。