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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第326号
2003年2月1日発行

如来真実のねがい

 

 智慧の光明はかりなし、有量の諸相ことごとく、光暁かふらぬものはなし、真実明に帰命せよ。これは親鸞聖人御制作の和讃の一首ですが、真実についてはっきりと御示しになった御言葉であります。真実の精神と行動は、智慧と言う言葉に表はされます。智慧は抜苦與楽《バックヨラク》苦を抜き、喜びを提供する働きを言いますが、苦と言うのは、いろんな問題と言って良いでしょう。釈尊は人生は苦なりと示されます。つまり、問題のるつぼと言って良いでしょう。一つ一つの問題解決の連続が人生であるとも言えます。 
 問題解決の一つ一つが人生の幹の年輪ともなって来ます。仏教を伝えて来た三蔵法師が此処に人間の立脚地が有ることを述べて《樹心佛地、流念法界》それを親鸞聖人は《樹心弘誓佛地、流念
難思法界》とそれぞれ弘誓と難思の言葉を挿入しておられます。弘誓は弥陀の本願を言い、難思も同じく弥陀の本願を言います。
 世界の宗教の歴史と中心課題を考えておられる二人の対談を聞いて見ますと、それは施与と超越であると言ってましたが、施与は自他共に安心を共感する物の実現にあると言えます。
 超越も同じく絶対安心の共感にあると思います。真の安心は、無明の闇を破り、光明の世界の発見にあります。無明は自分の分別の世界の固執にあります。その分別の超越は人間分別を超えた、いわゆる超世の本願と言われる四十八願。それは如来の本願、智慧と慈悲の回向にあります。慈悲が施与であり、智慧が超越となります。慈悲の他に真の施与はありません。そしてまた智慧の他に真の超越はありません。最初に頂きました親鸞聖人の和讃=智慧の光明量りなし。智慧は如来の眼を表します。十方三世の内外を見抜いた眼の事です。人間の知恵はその時その場におけるその人の認識を出る事は出来ません。でもその日その場の事を他にして問題はありませんから、一瞬こそ大事な事となります。でもその《一瞬》は分別で捕らえられる物ではありません。《一瞬》は分別の能力の領域を超えています。カメラのシャッターは千分の一秒を捕らえます。その瞬間を後で見て、あれやこれやと思慮分別します。その思慮は延々と述べられるでしょう。それ程深い内容を持っている瞬間なんです。しかしそれは人間分別の世界の事であって、如来は五劫に思惟された内容を持つ瞬間なんですね。それは偏に一人一人が一人一人に施与された真実のいのちに目覚める事のほかにありません。真実のいのちは如来のいのち。如来のいのちは佛より汝と呼びかけられる一人一人の身に施与されている智慧の世界を言います。智慧は信心とも言い、信心は歓喜を表します。それは心底からの呼びかけに出会った心だからです。一人一人の最終的願い。それが弥陀の本願です。すべての人の願いですから、しっくりと認め会う事が出来ます。そこに歓喜があります。安心があります。お大事に、と声をかける心に仏心があります。蓮如上人は、その心を、後生の一大事と御示しになりました。後生の一大事は一瞬の中に働いている心を汲み取る事を忘れずに大事にせよとの御示しですね。一瞬は捕らえる事は出来ません。ただ心を耳にして一心に聞くほかにありません。お経のなかに、風の中、水の中、樹の中、葉っぱの中に、いのちの声が聞こえてくる。清く伸び伸びと共に生きよ。その声を、念仏、念法、念僧の響きありと、説かれます。
 念は如来の智慧による慈悲を言います。
 如は真を言い、来は事実を言います。いかなる事実も智慧と慈悲との働き有る事を言いますから、心の耳を傾けて見れば、如来真実の声が聞こえてまいります。
 その声こそ、弥陀の本願、第十八願の声、《私は南無阿弥陀仏の如来となって、貴方と一諸に生き続けているけど、私の方へ眼を向けてくれないのが、なんと言っても悲しい。私の名を一心に称えてほしい、これは既に、一切の神も佛も称えている事実であるから、心が開かれ、生きる力が生まれて来るはずである》と。