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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第324号
2002年12月1日発行

真実自由の世界を開く 

 

 今年もいよいよ最終月を迎えました。
 特に今年の終盤は北朝鮮の拉致問題が表面に出て、脱北者の決死の状況が、ルポ放送されたりで、見識の違った国家間の調整程、困難な問題はないようですね。
 言葉の違い思考の違い、立憲国家と独裁国家。隣も遠い国。それはそのまま家庭の中まで写しだされて、人間の間も程遠い現状は悲しい現実ですね。
 本願はそこから起こされたのでした。
 人間の苦悩、憂い悲しみ、そこからの離脱をいかにして実現するか、インドにおける阿育王、日本における聖徳王、政治の基本に仏教の心を取り入れてみても、人々の切なる願いと政治に関わる権力者との間には、遠い厚い壁が横たわっているさまは、今も昔も変わりないようですね。東欧諸国の難民問題、いつも国家間の争いに巻き込まれ、犠牲を強いられるのは、力なき民衆ばかりで、堂々巡りの歴史を繰り返すばかりですね。
 仏典の中に、山火事に出会った小鳥が池と山火事の間を、翼に濡らした水を何度も何度も運んでいる鳥を仏様がご覧になって、その心の純一なるを称えて、人もまた一心に努力する事を勧められました。
 親鸞聖人が、世の中安穏なれ、仏法広まれかしと念じて、真実の「教行信証」をお書きになって、真実の「教法」「行い」「信」「確証」をつぶさにお示しになりました。
 「教法」は大無量寿経。本願念仏が説かれています。「行い」は念仏、それは如来の信が働いている確証。如来の本願は、諸天善神、人民地祇一切の心中に入りたまい、導きたもう。一日生きるも、百日生きるも、住する心によって行いも諸道も、大きな歴史の差異を生み出し、その人の人生を完成させて行きます。一人一人の歩みこそ、歴史の扉を開いて行きます。一挙に解決は不可能でしょう。長い長い伝統の歴史。法蔵菩薩は永劫の修行、阿弥陀仏は十劫の間、人間の浄土荘厳参加の時を待ち続け、呼び続けての現われが、お念仏の声でした。
 私たちが、お念仏申すのは、その本願の心の願いに共鳴し参加し証明する行動が、念仏申す事であります。
 お念仏は宇宙にみちみちている本願真実の精神を表しています。
 念仏申す事は、真実の精神に共鳴し、賛同し参加し、如来本願の真実を、微力なる凡夫が証明する時を与えられるのです。時、「今現在」生きている唯今、真実の世界に生きる。いつこの身の命が終わろうとも、現実唯今真実の世界に会い、確認し、証明し、実践する。それがお念仏申すと言う事です。
 そこには三世十方世界の有縁の念仏者達が集い護念して下さっています。
 それを親鸞聖人は冥衆護持の利益として揚げておられます。南無阿弥陀仏を、御正信偈の最初に、帰命無量壽如来 南無不可思議光とうたいあげられました。
 無量壽如来に帰命し 不可思議光に南無し奉る。光りといのち極もなき阿弥陀仏を礼すべし。
 真に帰命し礼すべきは仏法、釈迦牟尼佛が帰命し讃嘆し勧められた行法は、無量壽佛の御名である、南無阿弥陀仏を十念する。そこに諸々の善法が現前し一切の功徳が結集すると、仏説にあります。
 無量壽は、一切生きとし生きる全ての者の命となり、精神となり、思想となり、生活となり、世界となり、人間を成就し、不可思議光は、真実世界を与える光となり、一時的知恵に三世十方を照らす永遠真実の智慧の心を与えて下さいます。
 そこに真の自由が開かれます。「自由」自然法爾の「自」に由る生活。絶対自由、無碍の世界が開かれて、おのずから如来とともなる世界が開顕されて行きます。