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熊本県長洲町安正寺

エコウ11月号第323号
2002年11月1日発行

本願は大悲の心 世のイノリ

 

 北朝鮮の拉致問題に関わる動き、モスクワの劇場人質、チェチェンのソビエトに対する恨みに、アメリカの、報復軍事行動に対する内外からの反対、賛成の意思とその行動。世界に波紋を広げる経済の問題、数え切れない程の問題に満ち満ちている現代社会。それは、釈尊当時からの問題が連綿として流れている、暴流(止める事の出来ない激しい世の流れ)ですね。
 それを四暴流と教えられています。
 一つは、欲暴流。自己保存の根本意欲から流れ出る心。それは、権力欲から、利欲、物欲、名勢欲、生命欲。等、限りがありません。二つには、有暴流。物事を一方からだけ見た事を固執して離れない。それは、三つ目の見暴流に転移して意見の対立を見て終に軍事行動に展開して弱肉強食の世界を見せ、ノーベル平和賞の人選で平和の問題を喚起しても武力の前には、何の力にもならない現状ですね。
 それは四つ目の、無明暴流に根源をもっています。無明は、お釈迦様が発見なさった、人間流転の基礎を表しています。
 流転は、生死流転を表します。生死は、生は存、死は亡、いわゆる存亡ですね。存亡は浮沈を表し、グルグル回って静止する事がありません。惑、業、苦と、惑いと行いと困苦の世界を浮き沈みしながら、欲望の棒をぐるぐる振り回しながら、終に一生を棒に振ってしまいかねません。家庭内の問題から、社会国家の問題、はては世界の問題に至るまで、人間の知恵に依る限り、完全なる解決には至らないでしょう。
 その限り全く見捨てられて行くのは、弱者、民衆のほかにありません、
 そこに弥陀の本願があります。
 本願は、国と環境と精神と実践と、基本課題を定め、その方向えと進める原動力となる物であります。
 まず地獄の苦しみからの脱却を願います。加害者も被害者も共に苦しみの中に閉ざされています。自害害彼、害するも害されるも、愁嘆の真っ只中、短い人生、死を前にした生、本当の生を省みる時は今の外にありません。餓鬼。不足の心情。唯欲求のみあって、何を求めているのかが不明、生きる上に必要な物は何か、それは精神。人多き、人の中にも、人ぞ無き、人、人と為せ、人、人と成れ。お釈迦様は、人間の尊さは、その人の業績にあり。行いにあり、実践にある。と示されて、その根底にある、精神を至心とお示しになり、あらゆる人々の心に至る、心との交流、往来、至り届く心、至り届けられた心、それは阿弥陀仏の心、信楽(シンギョウ)共に信じ楽しむ心、疑いなく安心して今日に生きる所に、人間生活の永遠性があります。大いなる阿弥陀仏の心に抱かれて生きる所に、敵対する、対立の分別が、共に凡夫と言う自覚の上に立って、我を見て居て下さる阿弥陀如来の平等の慈悲心に促されて、念仏の大地に立たされる時、我等愚痴身(ガトウグチシン)我等共に愚痴の身なり。これは中国の善導大師の御言葉ですが、日本の聖徳太子は、「世間虚仮、唯佛是眞」と御示しになって世間心は虚仮偽りに満ちており、唯、佛のみ真実でおわします。その真実の心からの私への只管なる如来の行動が、お念仏ですね。南無阿弥陀仏のお名前は、阿弥陀仏が法蔵菩薩として一一の本願成就のために永劫に行ぜられた時、そこには一念も一刹那も、気を散らす事無く、唯只管に願行に打ち込まれた信念が固まって南無阿弥陀仏の声となられたのがお念仏ですから、お念仏申す人にその精神が移されて、如来の御苦労が身に沁みて、不思議にも、清浄、平等、無量の世界の息吹が心身に満ち渡って自然に南無と言う、帰依、帰命合掌の心が与えられ、地獄の苦しみと、餓鬼の狭窄性と、畜生の無明と無方向性を脱出して、生きとし生きるすべての物との生命の共同性に目覚めた真実心の世界に生きる喜びを分かち会える同朋となる所を往生極楽の道と示されたのが親鸞聖人のお心であります。