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熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第322号
2002年10月1日発行

本願の念仏は如来摂取のお働き 

 

 実りの秋、穀類、果実、体育、全般にわたって収穫を手にする時を迎え、自然えの恵みに対する感謝の祭典が繰り広げられる時です。
 また十月を神無月(カンナヅキ)と言って、夫婦の契りの組み合わせを語る神々の集まりがあって、収穫を目の前にして、次なる婚礼の準備に忙しい神々でもありますね。
 仏陀はそこに、神々に依らない人間の道を教えられます。
 一切は業によって営まれる。神々の采配による物ではない。業と言うのは、その物自体の働きを言い、その働きには縁となる多くの働きが加わる。縁によって存在がある。それを縁起と言う。存在縁起の全体を本願力と言い、仏力他力と表される。本願力、それは真実の命の営みで、大願業力とも現されます。
 本願力にあいぬれば 空しくすぐる人ぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
天親菩薩がうたわれた言葉を、親鸞聖人が和讃されたものです。
 本願の、み教えに遇い、聞く事ができれば、どんな人でも、如来の智慧のなかにいかされて居る事にきづき、人間感情の根底に働く眞心に触れて、小さな分別の壁に閉ざされて居た闇が払われて、煩悩妄念の正体があばかれて、分別の壁全体が智慧の光明海中に溶かされて、煩悩妄念の無明海中にありながら、安らかに生きる身として頂く事が出来るのです。
 それを源信僧都の心を、親鸞聖人が正信偈に、煩悩に眼さえられて、摂取の光明見ざれども、大悲倦むことなく、我を照らしたもう。光の中に住まわせて頂いている一日一日であります。
 川の流れのように。と、歌っておりますが、それこそ、ドコドコ行くの。となりますね。
 流れ流れてゆくさきは、すでに川は終わって海に到達しています。それこそ、全世界が欲望と闘争と排他の混濁した、無明暗黒の濁悪海の渦巻く相が、無眼人と言われる凡夫にも感じられる時代となっておりますね。
 親鸞聖人は、大無量壽経を釈尊真実の教えと御示しになります。それは、弥陀の本願が説かれているからです。
 弥陀の本願、それは、全生命の真実の意志を表します。それによって生命は安堵し、全生命をかけて活動します。
 生命が生命に安んじて実働します。これを無碍の一道と表されます。
 如何なる相状にも誠心誠意事にあたります。自ら当たり得なくても、本願力が当たってくれます。その働きを身に実感するのが、お念仏ですね。お念仏は、本願の働き。苦悩の闇の中に納得して一道を見極めて行く歩み、そこに自覚と実証とを兼ね備えた、真実道があります。
 それを如来の信と凡夫の心とが呼応感応して「信心決定」(シンジンケツジョウ)と、表れ、それを「往生一定」(オウジョウイチジョウ)と示されて、聞即信の即座に如来光明海中の生活を頂く、「正定衆」(ショウジョウジュ)の位につかせて頂きます。位(クライ)は世界を表します。正定衆は、自然必然の道理を認識し、安立する生活を言います。
 即ちそこに、永遠真実の生命の鼓動を体感すればこそ、何物にも妨げられない、無碍の一道が展開されて来ます。
 真実の生命に立脚しての道ですから、全生命界に満ち満つる、すべての一般に言われる「霊」なるものも、ひれ伏して念仏者を、護念せずにおれないのです。何故ならば、「霊」その物も、真実の生命によらなければ、その存在も与えられなくなってしまいますから、真実如来に帰命(キミョウ)する念仏者には、悪魔も悪鬼も、善神と化して、夜昼常に慶び護り給うなりと、お歌に示して下さってあります。
 諸佛の護念は、阿弥陀仏の悲願ですから、阿弥陀仏の身体である、お念仏を頂く人を護り通す事こそが諸佛の生命とも言えます