|


熊本県長洲町安正寺
エコウ9月号第321号
2002年9月1日発行
|
お彼岸は、光明の広海
|
|
|
暑さ寒さも、彼岸まで、と言う言葉がありますが、お経の中のお言葉から由来していますね。暑い夏の季節を過ぎて、爽やかな秋を迎えます。寒い冬を越えて、暖かい春がやって来ます。暑さも寒さも、与えられた季節、与えられたと言う事は、受け取る外にありません。いやでも受け取ると言う事ではなくて、実は与えられたと言う事は、そこに我有りと言う事を表します。今此処にこうして有ると言う事が我の存在を証明します。今此処にこうして我有りと、宣言して立っている事を証明してしている事実を、受け取ると言う言葉で表現しているのです。実はそこに、お彼岸があります。お彼岸は佛様の世界、仏様は、本願の完成から出て来られた御方ですね。それを如来様と申し上げます。私たちに最も近い如来様は、釈迦牟尼如来様ですね。親鸞聖人が御正信偈の中に「如来所以興出世」とうたわれます。如来と言う字の前に釈迦と書いていらっしゃいます。その釈迦と書いた字の上に如来と書き直していらっしゃいます。お釈迦様は如来様であった。この世に人としてお生まれになった如来様。その本地は、一切の諸仏が恭敬賛嘆せずには居れぬ、阿弥陀如来様であった事は、如来の因と果と現状を隈なく説かれたところにありますね。それが浄土の三部経であります。大経は真実の行信。観経は生活の中に如来の願力が働き、念仏申す身となる時、一人一人の生命の歴史が完了し、願力の力その物に帰し生きる身となって、願力その物を、「法」と言う語で示されます。その世界を彼岸と言い、仏道修行はその彼岸への道を言いますね。真実への道は久遠、永遠、長遠の道のりと教えられます。その道は凡夫の道ではありません。では菩薩ならば行けるだろうか。否行く事は不可能です。行く事は、行ずる事です。行は一寸も揺るがせには出来ません。家を持ち、妻を持ち、子を持つ身では到底歩ける道ではありませんね。でも歩く必要はありません。行かねばならない世界から、来てくださったのが、お釈迦様なんですね。お釈迦様は人間一人一人の中に働いて居て下さる如来様の名を無量壽佛の名と、お示しになって、南無阿弥陀仏の名を称すれば一切の業の障りの絆を絶ち切って即座に、十萬億の境涯を超えて真実の世界に往生する事を得ると証言されます。
お釈迦様は、阿弥陀経の中に、私はこのように、今、真実の利益を身に受けて、苦悩を超えた、慶びの世界に住し、止まる事の無い、願力の命を受けて、生きているんだよ。と切々と御説きになります。
蓮如上人が、晩年、御門徒の方々に、命のある間に、聞いてくれよ、としきりに呼びかけられたのは、おおいなる慈悲の表れでありましたね。お釈迦様も大経下巻の人間世界での喜びを表して、「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」と、お示しになりました。この法を聞く事が出来れば、どんなに理屈はわからなくても、命の事実だけは失う事はあり得ない。その事実がある限り、真実を敬い、真実が身を包み、慶びの中に生かされて、一息一息を大事に戴いて生きる所に、大いなる功徳が齎されて、信心歓喜、如来の光明に照らされて、明るい一日、護念される一日、平穏なる一日、それは、十方衆生を同時に包み守りたもう如来の大悲心に包まれてあればこそ、御釈迦様は、私と同じ世界に住む人であれば、わたしの最も親しい友であるとよろこんで、お勧めになるんですね。一度この境涯に入らせていただけば、絶対に抜け外れる事はありません。それを他力と言い、仏力と言い、本願力と言い、正道に立たせて戴いた身を慶ばずにおれません。無上大利の功徳を湛えたお念仏は、永遠に誉め讃えても、誉め尽くす事は出来ない、と御釈迦様は述べられます。善導大師は、念仏の利益を讃えて、「利剣即是弥陀号一声称念罪皆除」と賛嘆されます。
たった一声の御念仏も、世界の真実の命を湛えた大行であるから、一切の障りを切断します。
|
|